分らない。今になってみると、間違ってたようだ。」
「あなたは、後悔してるの?」
「いや、そんなことじゃない。君は、あの男に対する嫉妬心だけで、あんな狂気じみたことをしてしまった。嫉妬心の腹癒せ……そんな、ちっぽけな、個人的な心がいけなかったんだ。もっと怒るんだ、もっと、本当に、腹の底から、怒るとよかったんだ。」
「怒ったからこそ、……分らないのよ、あなたには。」
「それが、実は本当に怒っていなかったのだ。僕にはそれが分る。今も云ったように、僕は今夜、有吉に対して、初めは冗談のつもりだった。ところが、その後では、本当に憎んだ。もし腕を押えられなかったら、即座に刺し[#「刺し」は底本では「剌し」]殺していたろう。……向うはそうじゃなかった。初めはわりに真剣で、後ではもう僕を憎んではいないようだった。それが、有吉との本質的な違いだ。今になって分ったのだ。そして僕は、ああいう人物に対して、ああいう存在に対して、腹が立った。本当に怒った……。」
「だから、あたしとも別れようというの。」
「本当に怒って、それから、分ってきたのだ。僕は一人だった、一人ぽっちだった。向うは、大勢……ああいう階級全部を背負っていた。……君だって、嫉妬心にかられた時は、一人ぽっちだった。だが、向うは、あの男は、ああいう人間共……ああいう生活、それ全体を背負っている……。」
「…………」
彼女は無言で、彼の顔を見つめた。その眼から……下眼瞼の円く開いてる縁から、しみ出すように、涙が……。それがこぼれかけた時、急に、彼の頭に縋りついた。
「いや、いやよ、別れるのは。」
「淋しいのか、一人ぽっちなのが……。」
彼女はなお強く、彼の肩を抱いた。
「それを、一人ぽっちでなくなすんだ。」
「では、別れない?」
彼は彼女の手を静かに離して、その額に接吻してやった。白粉のついた冷い額を、差出して、彼女は眼をつぶっている……。
「分るだろう……こんなことをしていては、いつまでたっても一人ぽっちだ。二人できつく抱き合ったところで、やはり、一人ぽっちの淋しい気持は、無くなりはしない。」
彼女は強く頭を振った。
「それが、男と女との違いだ。」
云ったあとで、彼の眼の底は、熱くうるんだ。
「僕は、いつか云ったことを、いさぎよく取消そう。女は、子供を産まなければいけない。子供だ。男は……。僕は、久しぶりに、母のことを思い出した。僕がまだ小さい時に死んだ母だ……。」
開いたままの窓から、冷い夜気が流れこんできた。彼は立上って、窓のところへ行って、空を眺めた……。
いつのまにか、その後ろに、彼女も立っていた。
「どうするの、これから……。」
「沢山仕事がある。先は遠い。ゆっくり、あせらずに歩くんだ。君と別れて、僕は却って、君と強く結びつくような気がしそうだ。」
「…………」
見返すと、彼女の若々しい髪が、肉体が、電気の光を滑らして、息づいていた。それ全体が、一の抗弁のよう……。
彼はいきなり彼女を捉えて、胸に抱きしめた。
「許してくれ、それより外に、仕様がないんだ。」
「自由になりたいのね。」
「…………」
「いいわ。あたしも……自由に……。大丈夫よ。自暴《やけ》は起さないから。」
「誓う?」
「…………」
彼女はただ笑った。彼も憂欝な微笑を浮べた。
隣りの部室には、昼間の労働に疲れた、若いトルストイアンの小林が、深い寝息を立てていた。
七
有吉祐太郎の大腿部の傷は、快癒までに二週間を要した。彼はその間に、休職を願った。そして一年ばかり過ぎて、免官の許可を得た。蔭で、田代芳輔の口添があったのは勿論である。
有吉は軍服をすてて、背広にかえた。頭髪を伸して、代りに、口髭を短く刈りこんだ。
その頃、杉本はもう上海に行っていた……。その断片的な消息を、有吉は警視庁の内部から得た。
「彼奴《あいつ》……。」
そう独語しながら、有吉は、やはり憎悪の念を持ち得ないのである。――
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1929(昭和4)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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