クールの瓶は多く、彼等の手に奪われていった。多くの漫画が、時には田代芳輔自身の漫画までが、或は細密に、或は横顔だけ、漫談のうちに描かれていった。哄笑が起った。そういう時、彼等の癖として、坐り直したり、立上ったり、一二歩あるき出したり……。その中に、有吉祐太郎が、愉快そうに髭をひねっていた。軍服で、勲五等の旭日章を一つ、胸につけていた。赤い太陽と白銀の光線とが、笑うたびに、光の反映を受けて、茶褐色の服地の上に浮出した……。
 時間が過ぎて、夜空に、星の光がました。露の結ぼれかけてる気配《けはい》の、植込から向うは、しんと静まり返って……。
 やがて、座敷の方の人数が、少しずつ減っていった。田代芳輔は席を立って、袴なしの細そりした身体を、庭の方へ、一巡、静に運んでまわった――居間に引込む前に。
 有吉等の一群の横に、高張の柱の影を受けた暗がりに、杉本浩は、卓子に肱をついて、ウイスキーの瓶を引寄せて、無言で、夢想に耽っていた。異邦人といった気持の、孤独感の中で、その夢想は幻覚的な形を取っていった――
 ――田代さんは、夫人を相手に、夕食の膳に向っている。膳――黒塗りの大きな餉台、その横手に、彼杉本も、同じ料理を前に、膝を正している。夫人の手で、二人の杯へ、九谷の銚子から、燗のぬるめの白鶴が、代る交る注がれる。その杯と、生物《なまもの》の多い新鮮な料理の箸との、合間合間に、田代さんは、杉本へ言葉をかける。最近の動静……未来の抱負……日常生活……それも、何をしてるか……何をするつもりか……どんな風か……といった調子の軽い問い。杉本は出来るだけ、当らず触らずの返事をする。話が、夭折した杉本の父親のことに及ぶ。豪い男だった、と田代さんは云う。君も父の子だ……と。どうにか生活出来るか……と。酒がうまそうである……。年齢の渋みのかかった艶のいい皮膚、半白の髪、毛の長い眉、底の見透せぬ老成した眼付、意志の頑強そうな口元……。そして、それを包んで、好々爺らしい鷹揚な態度……。酒がうまそうである。が杉本は、酒がうまくない。鼻のつんと高い、怜悧な、勝気な、痩せた夫人から、一挙一動を見て取られる、という意識ばかりではない。話が、杉本の身辺のこと以外に、一歩も出ないのである。学費を無条件で支給してくれたばかりでなく、卒業後のことは全く放任してくれてる。有難い恩人ではあるが……。
 ――俺はただ、この人にとっては、酒の肴になるだけのことだ。俺がこうして、御機嫌をとってるそのことが、俺の精神にどれだけの犠牲を要求するか。俺が貰った学費が、この人の富に、どれだけの犠牲を要求したか。両者のパーセンテージは……。恩義は、与える方では、与えることの享楽で償われ、受ける方では、受けることの感謝で払われてる筈だ。……この人は俺に、学費を与えることによって、奴隷根性を押付けるつもりではなかった筈だ……。
 生活の距りが大きくて、話の接穂がないだけに、杉本は、そんなことを考えるのである。田代さんに、自慢話をするだけの老いこんだ自惚か、杉本に、気焔をあげるだけの軽薄な自信か、それが少しでもあったならば、その場は救われるのであろうが、生憎……。
 だが、床柱を背に、後輩の代議士や実業家に囲まれてる田代さんも、やはり、杉本を晩酌の相手にしてる時と同じように、話頭の及ばない高みにあって、にこにこしながら、うまそうに酒を飲んでるのである……。
 旋風の中の、そこだけ静かな、中心点……。この人は今に何かやるな……とそう杉本も思うのである。――
 杉本は顔を挙げた。田代芳輔が通りかかっていた。杉本は立上った。
「やあ……。」眼にちらと、微笑の閃めきがよぎった。「ゆっくりしていってくれ給え。」
 それだけで、彼はもう次の人へ眼を向けていた。
 杉本はその後姿を見送った。最初の挨拶の時は兎も角、こんどは何か……。と思っていたのが、「ゆっくり議論を闘わしてみたい、」どころか、まるで違っていた。肩の少しこけた、肉附はよいが小柄に見える、なみの老人にすぎないが……。
 田代芳輔の姿が奥に引込むと、元気な一団の中から、声が起った。
「さあ、これからが吾々の世界だ。」
 大きな西瓜が一つ、宙に投り上げられた。
「早いぞ、西瓜は。」
「まあ見てろよ。」
 先の尖った大きな三角ナイフを取って、ずぶりと二つに割って、中身をえぐって、ウイスキーを注いだ。
「こいつ、うまいことをしてやがる。」
 四方から、大匙でしゃくい取られて、西瓜の一つは見るまに皮になった。
 杉本も、いつか、そういう仲間に引入れられていた。が、多くは黙って飲食するだけで……。手入の届いた頭髪、口髭、ネクタイピン、勲章、胸のポケットから覗いてるハンカチ、折目の正しいズボン、とも糸の縫紋の羽織、軍服、絽の袴……そういうものの中にあって、彼の皺の
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