こちらも、論鋒を研いておきますよ、ははは……。」
 有吉はも一度室の中を見廻して、悠揚たる様子で帰っていった。
 杉本は、立ったまま、灰皿に堆くつもった煙草の吸殼を眺めた。それから、窓際に腰を掛けた。
「スパイめ!」
 だが、変に憂欝に、膝頭に両肱をつき、両手に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をもたして、考えこんだ……。
 長くたってから、彼は顔を挙げて、室の中を見廻した。有吉の来訪が、不思議なものを齎して、彼は自分の住居を、初めて見るように眺めたのである。
 向うの隅の、英子の小さな机、婦人雑誌、鳥の羽をさした筆立、電燈の笠にかかってる、凉しい色どりのリリアンの編物……。更に、奥の室との仕切が払われて、そこに、大きな鏡台、無数という感じの雑多な化粧壜、化粧刷毛、バスケット、派手な衣類が取散らされてる、仰向けの甲李の蓋……。
 あの晩、夜更けに、彼女は破れるように扉を叩いて、彼のところへ飛込んできた。
「あたし、あたしだって……意趣返しをしてやる。」
 視線を空《くう》に据え、下眼瞼と黒目の縁と、二つの円弧の間の、純白な一線から、大粒の涙を、ぼろぼろとこぼした。それから突然、笑い出して、彼の茫然とした顔を、不思議そうに眺めた。いきなり彼の首に飛びついてきた。
「さあ、キスして頂戴、キスして……。それだけ。それ以上は求めないことよ!」

 英子が帰ってきた時、杉本はまだ瞑想に沈んでいた。彼女は静に歩み寄った。
「どうしたの?」
 彼の顔に、苦笑の波紋がゆるやかに拡がっていった――徐々に夢からさめる者のように……。
 彼女は急に、彼の肩と頸とに取縋って、木像をでも抱くように、抱きしめた……。

     五

 座敷には煌々と電燈がともり、障子を取払った縁先には、岐阜提燈がまたたき、庭の芝生には、あちこちに、高張が白面をそば立てていた。それから先は植込で、初秋の星空の下に、高く、黒々と蹲っている……。
 座敷の正面、床柱のわきに、主人の田代芳輔は、老いた……というより、歳月に磨かれた渋い顔を、屈託のない微笑に和らげて、人々の談話よりも、その上を流れる戸外の夜気を楽しむ様子で、言葉少なに控えていた。縫紋の絽の羽織が上布の単衣の肩をすべっているのは、膝をくずしているからであろう。葉巻の煙が、ゆるく立昇る……。周囲には、年齢の意味でなく仕事の意味での、少壮の、代議士、実業家、官吏など、和服や洋服が、置き並べた食卓を取巻いている。食卓の白布に、水盤の盛花がはえて……料理は質素で、銚子の数が多く……。そして賑かに、だがどことなく落付いて、互に献酬したり、或は手酌で……。食卓の列の、半ばから後は人がなく、卓布と花と陶器とが淋しそう……。
 その、座敷をすてた人々は、庭に散在していた。二三ヶ所に、卓子の寄合、椅子、長椅子、木のベンチ……。花も卓布もないが、大きな皿に堆く、サンドウィッチ、菓物、そして、サイダー、ビール、ウイスキー、コニャックなど。和洋種々の煙草……。強いリクールの、とろりとした液体が、煙草の煙にくもって……座敷よりも遙に、電燈の光と高張提燈の光との差を逆に、元気で粗野で騒々しく……。そしてあらゆる意味で少壮の、或は未完成の、型の出来ていない人々だった。
 座敷では、時々、銚子を運ぶ女中たちが、酌はしないで往き来するだけが、無言の色彩を添えていた。彼女たちが、提燈の蝋燭を取代えたのは、もうだいぶ前のことだった。
 この、田代家の、大震災記念の宴は、おかしな集会だった。料理が粗末で飲物が豊富なのは、多少その名にかなっていたが、そうした集りに当然あるべき、婦人や少年の姿は、少しも見えなかった。そしてただ、田代芳輔が、苦の活動範囲内の――今でも一派の糸を引いてる範囲内の、縁故の深い、重立った、男子ばかりであった。彼等は、何等かの意味で、田代芳輔が再び起つ――或は新らしく起つことを、信じていた。世間には発表されずにしまった或る対宮中問題の責を引いて、今ではただ、余生を楽しむらしい風をしているが、精力や富力からして、それで終るべき人物ではなかった。で、この集りでは、大震災の思い出も、話の主題となり得ないで、時事を中心とする政治経済の談話の、随伴物たるに過ぎなかった。而も、その政治経済上の問題も、断片的に、諷刺的に、暗黙の理解のうちに取扱われて、言葉で語られるよりも、言外の気味合で触れられることが多かった。外見、一夕の宴は、世間的な談笑のうちに過ぎていった。賢明な田代夫人は、早めに形式的に飯を出してしまうと、後の酒宴からは席をさけて、女中たちをも侍らせなかった。
 その全体とは、少し調子がちがって、露骨に、辛辣に[#「辛辣に」は底本では「辛棘に」]、詭弁的に、だが多少鈍重に、鈍感に、憚りなく談笑してる一群が、庭の一方にあった。強いリ
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