た。
杉本は云うのである。――ボルシェヴィキは仮面によって成立つ。彼等一派は、民衆の仮面をつけた纂奪者である。民衆の手に政権を戦い取ったと称しながら、実は民衆を戦い取ったのだ。十パーセントの譲歩をして、九十パーセントの権力を掌握する。そしてこの権力の獲得と維持のためには、手段と目的とを置換することさえ辞さない。マルクスの理論は正しかろうとも、それが彼等労働政治家の手に渡る時には、そこに反対物への転化的飛躍が起る。近代の政治は、権力の予想なしには成立しない。権力の予想を失う時、それはもはや政治ではなくなる。この思想を彼等は理解しない。なぜなら、それは彼等の政治的権力と矛盾するからだ……。
此度は杉本が、かすかな苛立ちで眉をひそめていた。そして有吉は、薄笑いを含んで、髭をひねっていた。
二人の視線が逢った時、有吉は云った。
「君の説は独特で、なかなか面白い……。」
それが、一閃の光みたいに、杉本の顔を輝かした。思想の底に触れない相手の微笑が、自然と、彼をも微笑ました。
「なあに、みな受売りです。」
「受売り……。」
そして、杉本の微笑につりこまれて、突然声高に笑い出した。
「はっはっは……そう韜晦せんでもいいでしょう。意見は意見だし……。」
云いかけて彼は、忘れてたものを急に思い出したように、眼玉をぎょろりとさして、あたりを見廻した。
「一体君は、韜晦癖があっていかん。あの……今日は、どうしたんです。僕に紹介してもいいでしょう。」
「誰のことです。」
「この前、誰か、女のひとが、いたようですが……。」
彼の揶揄的な微笑に対して、杉本は直截に答えた。
「あの女ですか。今日は……出勤していますよ。」
「出勤……。」
「カフェーの女給です。」
「ほう……。そして君と……。」
「共同生活を、一時、しているんです。そのうちには、また、別れることになるでしょう。」
有吉は、此度は本当に眉をひそめた。下唇の厚いその口から、強い語気が洩れた。
「いかん、それはいかん。」
有吉は云うのである。――くろうとの商売人と遊ぶのは、男として、場合によっては恕すべき点がある。然し、しろうとの女を弄ぶのは、断じて排斥すべきだ。ヨーロッパの大都市では、男女関係に於て、くろうと、しろうとの区別が、一般に殆んど無視されている。それは、徳操が頽廃してる証拠だ。日本人はまだ、両者の区別をはっきりつけている。そこに、日本の立派な徳操がある。その徳操こそ、日本の善良な風俗を維持するものだ……。
杉本は平然としていた。そして云うのである。――そういう説は、女に対する封建的な奴隷制度を是認する、誤った立脚点からのみ出発するものだ……。
有吉は、大きな眼玉を心持ちほてらして、相手の顔を見据えていた。長い髭がしゃちこばった。
「理屈と実行とは別だ。君は、そんな……不徳な心でいるから……この頃、田代さんのところにも……。」
「…………」
「自分でやましいと思うから、顔出しが出来ないのならば、まだ取柄があるが……。」
「それは別のことです。」と杉本はあくまでも冷かった。「時々伺いたいと思っていますが、何だか、共通の話題もないし、余りに生活の距りが大きいので、ただお邪魔になるばかりのような気がして……。」
「ばかな、それは君の方のひがみだ。田代さんとは、よく君の噂が出る、君のことを聞かれる……。だいぶ左傾してるようだが、どうだろう、少し意見を闘わしてみたいものだと、そんなことも云われていた。時々顔を出すくらいのことは……。」
「それはよく知っています。父が死んでから、ずっと学費のお世話になってきたんですから、影で、感謝しています。僕が、個人的に感謝していいのは、世の中に、あの人一人くらいなものです。」
云いすぎたかな……という気持で、杉本は相手の顔色を窺った。が有吉は、何か別なことを考えてるらしく、煙草を吹かしながら、窓から夜の空を眺めていた。やがて、その眼を手首の時計に落しながら、ふいに云った。
「君のそういう気持が確かなら、こんど、田代さんのところに来ませんか。」
「…………」
杉本は、自分の皮肉な言葉が、逆の効果を持ったらしいのを感じた。
「実は、来月、十月の一日に、暑気のため一月くり延して、震災の思い出……といったような主旨で、内輪の者だけが集る筈です。毎年やってきたので……君も知ってるでしょう。……昨年は、君はたしかに来なかったが……今年は是非出たらどうです。」
杉本は、奥深く、眼を光らした。
「昨年も……一昨年も……通知が来なかったものですから……。」
「手落だな。今年は僕が通知を出す筈だから……。」
「出席しましょう。」
その後の沈黙に、何かしら敵意らしいものが感ぜられた。有吉は俄に坐り直した。
「長くお邪魔してしまった……。ではその時までに、
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