しなやかな白い指先に、やさしく戯れて、編台の上に、留針に刺されながら、単調だが微笑ましい模様を、形づくってゆく……。
 それにも倦きると、彼女は、リリアンの長い一筋を取って、その切口の、細かな絹糸が無数に乱れてる中の、一つを探りあて、すーと引張る。組糸がほぐれて、長く伸びて……。屈托が晴れてゆくような感じだ。ほぐれた絹糸は、綯りの力で、縮れてぼけて、ふうわりと、綿のように……。それを彼女は、掌で柔かく円める……。新鮮な色彩の入り乱れた、宙に浮きそうな絹糸の球が、次第に大きくなってゆく……。その子供らしい、何か底に熱をもった、無邪気な遊びに、英子は眼を光らしていた。
 杉本と小林との対話は、落付いた足取りで進んでゆく……。

     四

 有吉が杉本を訪れてきたのは、晩、英子がカフェーに出て不在の時だった。
 杉本は物を書いていた。そういう時の癖で、書き損じの原稿紙を、机の左右に散らかしていた。それを無雑作に、室の片隅に払いやって、彼は有吉を迎えた。
 有吉は和服の着流しであったが、当時まだ現役で、短く刈った頭髪と長い口髭、外気に曝された皮膚、軍帽に練えられた額の肉附、じかに露骨に対象へ向けらるる大きな眼玉……などを以てして、明かに軍事的なものを一身に帯びていた。そして主客顔を見合した瞬間、その軍事的なものが、互の頭にはっきりと映った。――杉本は学校を卒業した時、在学中の徴兵検査で第一乙種合格のため、兵役についての境界線に立っていたので、何等かの便宜を望んで、有吉の助力を求めに行った。すると意外にも、国民皆兵主義の理論にぶつかった。其後彼は徴集を免除されはしたが、そのため、つまらないことをしたものだと思ったのである。――有吉は其後杉本に逢うと、彼に後ればせの好意を示すためか、或は世界的思潮に共鳴してか、国費全体と軍備費との数字的比率を持出し、軍備制限の必要を説き、最小限度の軍備に就ての自説を主張した。すると意外にも、極端な軍国主義か全然の軍備撤廃か、初期マホメット教国かイワンの国か、どちらかを選択すべきだという意見にぶつかった。そして、つまらないことを云い出したものだと思ったのである。
「君とは随分、議論を闘わしたが、其後……。」言葉を切って有吉は室の中を見廻した。「相変らず勉強のようですね。……僕も、この頃、軍事の中だけに籠らないで、一歩ふみ出したいと思ってるから、君に教えを乞わなくちゃならんことも、いろいろ出てきそうで……。」
 変な挨拶である。その裏の気持を読み取ろうとして、杉本は、相手の顔色に眼をつけた。有吉は眼を外らして、書棚に並んでる、和洋雑多な書籍を物色し初めた。
 バラックとも云ってよいほどの、粗末なアパートの、和洋折衷の室である。四角な区劃、それが、入口の控室で切取れ、押入で切取られ、下が三尺の戸棚になってる床あきで凹み、奥の室に通ずる襖、硝子戸の六尺の窓……。片隅に机を据えて、その横で……。主客とも、何だかその処を得ないような様子である。杉本は、不器用な手附で、茶と菓子とをすすめ、有吉は、書棚の方へにじり寄っていた。
「ほう、随分多方面なものが……。クロポトキン……明快な論理だそうですね。」
「少し集めていますが、隙が出来たら読んでみるつもりです。」
「アナトール・フランス……面白いですか。」
「それも、まだ読んでいないんです。」
「マジー……と、魔法ですか。これは愉快でしょう。」
「それも、実はまだ……。」
「…………」
 ちぐはぐな問答が続く……。
 有吉は坐り直して、渋茶をすすった。
「君は、自由に研究が出来て、羨しいですね。僕なんか、隙がないものだから……。それで、ロシア通の話を聞けば、労農政府に同感してくるし、イタリア通の話を聞けば、黒シャツに同感してくるし、去就に迷う始末なんで……は、は、はっ……。」
 突然笑い出した。が、案外真剣で……。
「君はどう考えるですか。」
「え?……。」
 そして二人の間に、全く観念的な会話が展開していった。要約すれば――
 杉本は云うのである。――ファシズムには、それ自身二つの矛盾を含んでいる。ファシズムは元来、ブールジョアジーの攻勢的武器であって、その対敵目標は、ブールジョアジー以外の凡てにある筈だ。それが、発展の道程に於て、広く大衆に――小ブールジョアジーのみならず、小農民階級やプロレタリアートの或る層にまで、立脚しようとする。そこに機構的矛盾がある。また、ファシズムは、それ自身の独裁を目的とする。随って、議会政治の無用――立法権に対する執行権の優越を、肯定するものである。然るに、それを議会政治の基礎の上に獲得しようとする。そこに手段的矛盾がある……。
 有吉は心持ち眉をひそめていた。が敢て抗弁はしなかった。杉本はその肉の厚い顔付に、かすかな笑いを漂わしてい
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