日焼けのした、にこにこした顔が、そっと覗いた。
「お邪魔じゃありませんか。」
「やあ、はいれよ。」
杉本の眼は、いつもより、急にやさしく輝きだして、小林を迎えた。
隣室に、二人の大学生と一緒に住んでる、年の若い自由労働者だった。一日働いて疲れきっても、仕事にあぶれて時間をもてあましても、平気でいた。金はないか、と大学生から云われると、持ってるだけのものをすぐ出してやった。大学生が外をぶらついて、自分は仕事がなくて、困りきっても、平気で水ばかり飲んでいた。余り腹がすくと、飯を一杯食わしてくれと、杉本のところへやって来て、二三度分を一度に平らげて、けろりとして、親方のところへ、仕事を貰いに出かけていった。勉強しなくちゃ駄目だ……というので、杉本の書物を借りていった。日々の簡単な手記を、杉本に添削して貰った。
その一種の日記……二枚の紙を、小林は杉本の方へ差出した。
「これ、今日んです。」
「ほう、早いね。」
「今日は、つまらない仕事なんで……。」
だが顔付では、別につまらなくもなかったような……その様子を、杉本は、頭から足先まで一度に抱き取る眼付で、じっと見ながら、前日の、赤字で一杯になってる原稿を、返してやった。小林はそれを丁寧に読み分けて、腑に落ちないところは質問した。それを少し写し出してみれば――。
――鉄筋の運搬だ。五メートル物の束を、前方に一人、後方に一人、二人でかつぐのだ。この仕事、力の不公平は、随って労力の不公平は、寸分も許されない。同じ重量が、二人の肩にかかっている。だが、一種の義侠心と名誉心とから、強い方が前方を受持つ。前方には、重量を支える以外に、注意が必要だ。鉄筋の頭を、物にぶっつければ、その反動で、肩にずっしり喰いこんでるやつが、着物越しに、肩当越しに、肉を破る。而も、ぶっつかる危険物は、足場の粗雑な組立のために、随分多い。こういう狭いところを、人間の肩で運ばせるのが、間違ってるんだ。だが、狭いから、機械や馬車で運べないから、人間がやるんだ。重い鉄棒に向って、俺の力で、という気持から、誰も皆、責任感が強い。重量の下に、死んでも、膝を屈げる者や、肩から投げ出す者は、いない。ただ、不注意だけだ。うかと、物にぶっつけて、その反動で肩の肉を破る者は、時々ある。人間には、機械的な注意は……。
そんな風に、まだ続くのを、小林は読み終って、首肯いて、出て行こうとした。
「まあいいじゃないか。」
「隙なんですか。」
「うむ……。あの、例の先生たちは?」
「いませんよ。」
「また、君から金をまき上げて、酒を飲みに行ったんだろう。」
「…………」
小林は黙って、薄ら笑いをしていた。
「まだ君は、ああいう連中と別れられないのか。」
杉本の鋭い視線を、小林は意外に感じたらしく、暫くその眼付を窺ってから、云った。
「別れられるとか、別れられないとか、そういうんじゃありませんよ。同県人で、ああして一緒にいる……。だから、一緒にいるだけです。金のことなんか、向うにない時、僕にあることが多いんで、それで、持っていくんでしょう。あの連中は、酒が飲みたいんです。僕は飲みたくない。だから……。それに、これは僕の修養です。隣人愛というものが、どこまで持ちこたえられるものか、神というものが、窮極まで信じられるものか、どうか、そんなことが、やはり問題になっているから……。」
「そんな個人主義は、駄目だ。」
杉本は叫ぶように云って、相手を遮った。そして、小林がまだぬけきらないでいる、トルストイ主義のことに、話を進めていった。――トルストイの豪いのは、隣人愛でも、無抵抗主義でもない。彼の偉大な個性だ。
その個性は、結局、個人主義の行きづまりである。彼は個人として、凡てのものにぶつかっていった。信仰が人を生かすものかどうか、神が正しいものかどうか、そんなことに、個人的批判を下そうとした。人間は如何にあるべきものか。そういう問題を、個人的に解決しようとした。それは、云わば、自然そのものに対する巨人の争闘だ。その争闘に、あくまで突進したところが、彼の偉大な点だ。然し、そんな方法では、愛も、神も、見出せるものではない。益々影が薄らぐばかりだ……。
杉本はいつになく熱心に、自説を主張し続けた。それに、小林は注意深く耳を傾けていた。奇矯にわたる説に出逢っても、驚きもせず、腹も立てず、神妙に聴いているのである。
そしてこの、短く刈りこみ、日焼けの額に老けた筋が通り、善良な眼付と口付……骨格は頑丈だが、栄養が不良らしい肉附の、若いトルストイヤンと、茫漠たる風采の杉本との対話……その傍で、それには一言も口を出さず、強いて理解しようともしないで、英子は、しきりにリリアンを編んでいた。
赤や黄や紫や白や桃色の、艶やかな絹糸が、サファイアの指輪をはめた
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