る場所である。
女中は火鉢に炭をつぎ、炬燵にも火を入れた。夜分は河風が冷えるのであろうか。
風呂のことを聞かれると、千代乃は長谷川に相談もせず、いらないと答えた。
「お料理と、それから、お酒をね。」
途中とちがって、彼女はもうあまり口を利かなかった。
この家が気に入らないのか。それとも、疲れたのか。どちらでもない、と彼女は言った。
「なんだか、たいへん遠くへ来たような気がするの。」
「僕は、今朝から、たいへん長い時間がたったような気がする。」
沈黙にふさわしい夕暮だった。長谷川は洋服をぬいで丹前をはおったが、千代乃は着換えなかった。
「このまま帰らなかったら、どうでしょう。」
「帰らないって、東京へ。」
「いいえ。なんと言ったらいいかしら……。これまでのあらゆるものを、すっかり捨て切って、新たに生れ変る、というような……。」
「そんなことなら、あなたはもう決心してるんでしょう。」
「しています。けれど、なんだか頼りなくなってきたの。」
彼女は手を伸べて、長谷川の手を強く握りしめた。
「どんなことがあっても、わたしを見捨てなさいませんわね。」
「よろしい。誓いましょう。」
「わたし、ほんとに惨めですの。そして口惜しいんです。」
長谷川は黙って、その続きを待った。彼女は彼の顔をじっと見た。
「実は、昨日、柿沼に逢いました。」
「え、あなたが。」
「わたしの方から逢いに行きました。」
それきり彼女は黙ってしまった。だが、まだ長谷川の顔を見ていた。ほんとに見てるのかどうか、まばたき一つしなかった。
「そして、どうだったんです。」
その言葉で、彼女は眼をそらした。それから皮肉な笑みを浮べた。
自然に彼女が打ち明けるのを、待つより外はなかった。
酒肴が来ると、長谷川はすぐ猪口を取り上げた。
「僕も、偶然、柿沼さんに逢いましたよ。」
「聞きましたわ。そしてなにか、わたしに言づけがあったのでしょう。伯母さんにも言づけがありましたの。」
酒を飲んでるうちに、彼女は自然に饒舌りだした。そうなると、もうなんの隠し距てもなかった。
千代乃はかなりまとまった金を工面し、将来に対する覚悟と夢想とを懐いて、三田の伯母さんのところへ出て来たのだった。その晩、いろいろな話の末、柿沼からの伝言を聞いた。何処ででもいいから、ちょっと、そして至急に、逢いたいというのである。
千代乃が間もなく東京に出て来るということを、柿沼はどうして知ったのであろうか。彼女は薄気味わるくなった。翌日はまず、長谷川に逢うつもりだったが、いろいろ考えてみると、どうせ柿沼にも一度は逢わねばなるまいと思い、その方を先に片付けることにした。
柿沼は神田に小さな事務所を持っていた。午後は、都心から遠い製菓会社の方よりも、その事務所にいることが多かった。以前はそこでいろいろな闇取引などもやっていたようだが、それも出来にくくなると、何か新たな計画を立てているらしかった。男二人に女一人の、いずれも若い事務員が三人いるきりだった。そこへ、千代乃は電話してみた。柿沼はいた。他の場所よりも、事務所でお逢いしたい、と言うと、よろしいとの返事だった。
板で中仕切りがしてある、狭い二室。その一室で、千代乃は柿沼に逢った。椅子だけは立派なものが備えてあった。
「僕の言づけを、誰から聞きましたか。伯母さんからですか、それとも、長谷川さんからですか。」柿沼はそう尋ねた。
「長谷川さんには、まだ逢っておりません。」と千代乃は答えた。
「そう。それじゃあ仕方がないな。僕はこないだ、長谷川さんに逢ったんだが……。」
柿沼はしばらく考え込んでいた。
「どういう御用でしょうか。」と千代乃は促した。
用件だけをすまして、彼女は早く切り上げたかった。柿沼はまだ考えていた。
「では、こうしましょう。ここから自動車で送り迎えをするから、僕の家までちょっと来てくれませんか。常子の位牌に線香を一本立てて貰う、それだけのことです。」
いやだとは、千代乃は言いかねた。柿沼との別離がもはや決定的なことは、暗黙のうちに了解ずみだった。お線香一本ぐらいのことなら、と彼女は思った。承知すると、すぐに自動車が呼ばれた。柿沼と二人で乗り込んだ。車内で柿沼は一言も口を利かなかった。まるきり他人ではないが、べつに喧嘩してるのでもない、そんな妙な気持に千代乃はなった。道は遠く、中野の奥だった。
柿沼の家で、千代乃は応接室の方に通された。それから、白木の位牌の前に線香を一本立てて、ちょっと掌を合せた。仏壇には花が供えてあった。応接室に戻ると、紅茶が出された。そこで柿沼は言った。
「万事はっきりしておきたいから、聞くんですが、あんたには、だいぶ銀行預金があったはずですね。」
「みんな引き出しました。」と千代乃は答えた。
「それでいいでしょう。ところで、あの家屋だが、僕の名義になっているから、あんたの名義に書き替えることにします。その代り、松月館の方へ、あんたの名前でかなり出資してあるが、それは僕の名前に変えます。手続きはみな、松木君と僕とでするから、承知しておいて下さい。」
「分りました。」と千代乃は答えた。
柿沼は娘の弘子を呼んで、何か言いつけた。やがて、弘子は風呂敷に包んだ物を持って来た。
「これは、あんたのものですね。お返ししましょう。」
風呂敷をあけてみると、着古した紫繻子の冬コートだった。たしかに千代乃のもので、どうして置き忘れたか、新調の品と着換えて脱ぎ捨てたのか、よく覚えていなかった。千代乃はそれを風呂敷に包んで、お時儀をすると、弘子も極りわるげにお時儀をした。
「僕はちょっと用があるから、お送り出来ないが、よろしいところまで自動車で行って下さい。代金はいつも事務所の方ですますことになっているから、心配いりません。」
体よく追い払われた形で、千代乃はコートをかかえて自動車に乗った。
自動車のなかで、やがて、彼女は腹が立ってきた。どうにもならないほど、口惜しさが胸元にこみあげてきた。自分の意志はなに一つ働かず、まるで木偶のように扱われてしまったのだ。仏壇を拝ませられた上に、古いコートをお時儀して受け取り、それをかかえて、まるで女中のように出て来てしまった。――彼女は、芝公園の近くで自動車を降り、運転手に心附けも与えず、公園の中にはいって行き、人通りのないのを見計らって、コートの風呂敷包みを路傍に叩きつけた。自分自身が穢らわしかった。
その夜、彼女は柿沼への復讐を考えた。柿沼を殺してやろうかとも思った。ほんとに殺してやろうかと思った。なかなか眠られず、夜明け近くなってうとうとした……。
千代乃の飛び飛びの話を綴り合して、だいたい右のように、長谷川は理解した。
「それだけで、ほかになんにもなかったんですね。」
「ほかにって、どういうことですの。」
「いや、それだけのことなら、却ってさっぱりしていいじゃありませんか。柿沼さんらしいやり方だけれど、後腐れがなくていい。」
千代乃は刺すような眼付きを、長谷川に据えた。
「長谷川さん、あなたも、わたしをさげすんでいらっしゃるのね。そうでなければ、そんなこと仰言るわけはありません。」
「どうしてでしょう。僕にはよく分らないけれど……。」
「なぜ、ひとを騙して、お線香なんかあげさしたんですか。」
「別に騙したわけじゃなく、初めからそう言ったんでしょう。」
「銀行預金だの、家屋だの、出資だの、そんなことを、どうして言う必要がありますか。」
「それも、万事はっきりさしておきたいためでしょうよ。」
「古いコートのことなんか、どうでもいいではありませんか。」
「きれいさっぱりという、そのつもりなんでしょうよ。」
「いいえ、そんなことでなく、そのぜんたいのこと、ぜんたいの仕打ちです。」
「ちょっと待って下さい。僕を攻撃なすったって……。僕がしたんじゃありませんよ。」
「あなたには分らないんだわ。そんなら、今日のこと、なぜわたしが東京をいやがったか、すこしも察して下さらないのね。」
長谷川には全くそれは分らなかった。彼は黙っていた。
「わたし、ただ、柿沼から逃げ出してしまいたかったんです。」
「しかし、きっぱりと極りがついたんでしょう。逃げ出すなんて……。」
「いいえ、わたしはすっかり穢れているんです。柿沼の女中だったんです。拭ってもなかなか綺麗になりません。古コートを道に叩きつけて、自分も石に頭をぶっつけて死のうかと思いました。」
酒を飲みながらも、彼女の頬からは血の気が引いてゆくようだった。そして眼が底光りしていた。
長谷川にもようやく、彼女の気持ちが分りかけてきた。分りかけることは、同時に、柿沼という人物に対する反感が高まることだった。
「よろしい。僕にもすこし分りかけたようです。」長谷川は静かに言った。「柿沼さんは、しかし、別なことを言いましたよ。女というものは、家庭にあっては単に長火鉢でよいし、家庭の外にあっては単に湯たんぽでいいが、あなたは、千代乃さんは、長火鉢にも湯たんぽにもなれない人柄だと、そう言いました。」
「まあ、穢らわしい。」
「あのひととしては悪口のつもりかも知れないが、実は却って、あなたを褒めたことになるじゃありませんか。」
「いいえ、長火鉢だの、湯たんぽだの、なんてことでしょう。電燈とか、ランプとか、なぜ言わないんでしょう。」
「だから、あなたは、長火鉢にも湯たんぽにもなれないと……。」
「いいえ、わたしは柿沼の湯たんぽだったでしょうよ。そして昨日も、湯たんぽ扱いされました。」
それは、理屈ではなく、実感なのだろうと、長谷川は覚った。どうにもならないことだった。
「長谷川さん。」彼女は長谷川の眼の中を見入った。「これで、あなたはわたしがいやにおなりなすったでしょう。」
長谷川は頭を振った。
「ほんとうですか。」
「あなたは清らかです。」
彼女は眼にふっと涙をためて、長谷川の肩に縋りついた。
「いつまでも、愛してね。」
長谷川は彼女の額に唇をあてた。彼女の頬には涙が流れていた。
「さあ、もっと飲みましょう。」
彼女は涙を拭いて、頬笑んだ。それから鞄を開いた。ウイスキー、チーズやハム、菓子や果物、サイダーまであって、それらを彼女は卓上に並べた。
「お夜食よ。」
もう遅かったし、女中たちは先刻、隣室に布団をのべて、引きさがってしまっていた。
そしてその夜、千代乃はいつになく積極的だった。それも単に愛欲ばかりではなかった。全身を以て彼にまといつき、彼に密着し吸いつき、少しの隙間をも残すまいとし、彼の中に溶け込もうとした。凍えた者が温い毛布にくるまるように、彼の肉体で身を包もうとした。
「ね、もっともっと、あなたの愛情でわたしを清めて。」
わたしというのは、彼女の心や精神ではなく、肉体だった。肉体と肉体との接触が、肉体を清めるのであろうか。長谷川は自分の肉体の清らかさを感じた。彼女の肉体の清らかさを感じた。もう彼女の肉体は穢れてはいなかった。彼の肉体に密着して、彼女はうっとりとしていた。
穢れは、いやらしい影は、遠くに去っていた。それはもう、柿沼の許に脱ぎ捨てられていた。脱ぎ捨てられてはいたが、然し、やはりそこに在った。柿沼に対する反感憎悪を、長谷川は千代乃から引き継いだ。千代乃の清い肉体をかき抱きながら、それを防衛するような気持ちで、彼は柿沼を憎悪した。
憎悪は、柿沼の面影をそこに喚び起した。暗鬱な影をまとった仮面、それは、人間らしい感情、すべて人間らしいものに対する、蔑視だった。極度の蔑視こそ、自らに深い影を帯びる。その影に、千代乃は慴えたのではなかったか。もう大丈夫、心配なことはない、そういう気持ちで、長谷川は千代乃の清い肉体を抱き庇った。
十
自活の途を見出す、というよりも、開拓するのに、千代乃は苦心していた。長谷川や伯母にはいつも相談し、知人にも相談した。いざとなると、さすがに、何でもやるというわけにはゆかず、何処にでも飛びこむというわけにはゆかず、いろいろと思いがけない故障も起った。
柿沼
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