閑張の円卓に、茶菓が出されてるが、久恵は長谷川にすすめようともせず、ただにこやかに坐っていた。
「あ、こちらの、紫の方がいいかも知れないよ。」
 人形の布を、久恵は指図し、それを敏子は素直にきいて、裁ち布をかき廻すのだった。髪にパーマをかけてはいるが、和服に着換えて、膝をきちんと坐っていた。
 彼女がデパートでどんな様子をしてるか、長谷川は見に行きたく思ったこともあるが、未だに差し控えている。明朗でそしておとなしそうな彼女を、長谷川は好きだった。
「敏子さん、いっそデパートなんかやめちゃって、人形の方を専門にしないかね。お母さんも、針仕事やミシンをやめて、人形の衣裳だけにかかるんですな。そしたら、僕が大いに宣伝して、売り出してみせますよ。」
「だって、人形だけじゃあ、退屈でしょう。」と敏子が応じた。
「退屈……どうして。」
「朝から晩まで、坐りどおしで、人形ばかり拵えるんでしょう。」
「いや、そんなにきちんと坐っていなくったって、腰掛けても出来るよ。」
「拵えるだけなの。」
「そりゃあね、専門家だもの。」
「拵えるだけじゃあ、退屈よ、きっと。」
「それでは、どうすればいいんだい。」
「あたし、こぎれいな店も、一つほしいわ。」
「もちろん、店も出すのさ。」
「そんなら、賛成よ。そうしましょうか。」
 敏子は母の方を、いたずらそうな眼付きで見た。母も振り向いた。
「お店の方は、千代乃さんに出して貰うんだね。あのひともきっと賛成するよ。」
「そうだ。千代乃姉さんをおだててみよう。でも、どうかしら。」
 すべて、冗談ではあった。然し、そのあとで、へんに皆黙りこんだ。
 それを機会に、長谷川は辞し去ることにした。
 自分たちに好意を持ってる菊池親子と、この際、千代乃のことをなにかと話しあうのは、長谷川にとって心嬉しいことではあった。何の懸念もなくそのような話が出来る相手は、外に誰もなかった。けれども、また一方では、そういう相手だから却って、うち明けた話が憚られる点もあった。無用の心配はかけたくないのだ。
 無用の心配、そのようなことが頭に浮ぶほど、長谷川はえたいの知れない危惧を感じ、なにか思い沈んでいた。
 門燈のまばらな薄暗い裏通りを、長谷川は首垂れがちに歩いてゆき、横へ折れ曲ろうとした。その時、後ろから久恵に呼び止められた。
 久恵は彼の顔をすかし見て、低い声で言った。
「敏子がいましたので、黙っておりましたけれど……。」
 しばらく後がとぎれた。
「一昨日、柿沼さんが見えまして、ほんの玄関先だけのことでしたが、千代乃さんが来たら、至急逢いたいことがあると伝えてくれと、それだけのお話でした。時間はとらせない、場所はどこでもよいと、たったそれだけでしたが……。」
 久恵はまた長谷川の顔をすかし見た。
「千代乃さんは、ほんとにまたこちらへ出て来るんでしょうか。」
 長谷川は腕を組んだ。
「柿沼さんの話は、それだけのことですか。」
「それきりですよ。なんだか、お急ぎのようで、立ったまま、すぐに帰っていかれました。」
「そうですか。なにか用が出来たんでしょう。千代乃さんが来たら、伝えておあげなさいよ。」
 久恵はまだあとあとを待つように、じっとしていた。長谷川は突然言った。
「たったそれだけのこと、敏子さんの前で、どうしていけないんです。」
「いけないことはありませんが、あの子、なんでも饒舌ってしまいますんでねえ、千代乃さんにでも誰にでも……。」
「それでいいですよ。御心配いりません。大丈夫です。」
 久恵と別れて、長谷川は独り、大丈夫、大丈夫、と胸の中で繰り返した。それに気付いて、自ら苦笑した。
 明るい気持ちになった。先刻の、人形のことで敏子と交わした対話が、ぽつりと火をともしたように胸に浮んだ。敏子の姿がその明るみの真中にいた。別にどうということはない。ただ無邪気な明朗さだ。
 長谷川はまた酒を飲みたくなった。流しの自動車をひろうため、明るい大通りの方へ向って行った。だが、敏子を中心にする明るみは、逆に薄らいでゆき、仄暗い影が胸に立ちこめてきた。その薄暗い中で、先日、柿沼と別れ際にじっと顔を見合った時のことが、ありありと蘇ってきた。格闘、そんなばかなことにはなり得ないが、何等かの意味での対決が、まだ前途に残されてるようだった。大丈夫、と彼はまた胸の中で独り呟いた。自動車をひろって、彼は新橋近くまでゆき、その晩ひどく酔っぱらった。
 酔いの中に、幻想がわいた。千代乃のこと、柿沼のこと、松木のこと、嫂のこと、敏子のこと、石山のこと、その他、そしてそれを中心にした情景が、現われては消えた。嘗て彼は、小説を書こうと思い、種々の構想を建てたり崩したり再建したりして、それを一々石山に相談したところ、石山からひどくけなされた。どれもこれもいい加減なでたらめで、到底ものにならんと言われた。然し、そのうちの一つ二つは、石山の小説に利用されたのである。ひどい奴だと抗議を申し込むと、石山はすましたもので、生かすも殺すも作者の腕次第さとうそぶいた。今の彼の幻想が、その折の小説構想に似ていた。ただ、意識的に努力しないで、自然に出来上ったり崩れ去ったりした。然し、そのうちのどれかは生き上ることがあるかも知れない。生かすも殺すも作者の腕次第だ、と彼はうそぶいた。――ほんとに酔ってたのである。

     九

 街路から、扉口のカウンターをくるりと廻って、喫茶のホールにはいると、空気がいささか重く淀んでるだけで、まだ正午前のこととて客は少なかった。右手のボックスの奥で、千代乃は煙草を吹かしていた。その煙草の煙だけを相図のようにして、眼を伏せ、考え込んでいたのである。
 彼女の姿を見て、長谷川はほっと安堵し、同時に、なにかぎくりとした。側まで行くと、彼女は眼がさめたように立ち上って会釈し、またすぐ腰を下し、正面に坐った長谷川の顔に、視力の強い眼を据えた。
「いつ出て来たんですか。」
「一昨日。」
 そして初めて、彼女の眼はちらと笑った。
「そんなら、前に知らしてくれたっていいのに。」
「昨日は一日、用事があったものですから。忙しかったわ。」
「いきなり電話でしょう。大至急用があるなんて……。あわてちゃった。なにかあったんですか。」
「逢いたかったの。」
 はぐらかすように言って、彼女は眼をちらと動かした。
 それで、言葉が途切れ、コーヒーが来て、長谷川はそれをすすった。
 しばらく見ない間に、千代乃はすこし痩せたようだった。なんだか疲れてるようで、顔色も冴えていなかった。その代り、なにか思いつめてるといった風な、一筋の心棒が通ってる感じだった。
「なにかあったんでしょう。」と長谷川は尋ねた。
「いいえ。」
 彼女はかるく頭を振り、それから上目を据えてちょっと考えた。
「あなた、今日、お忙しいの。」
「いつもの通りです。」
「それでは、これから、どこかへ連れていって下さいません。電話では、ちょっと言いにくかったものですから……。どこでもよろしいわ。お金は、わたし用意していますの。ただ、東京都内はいや。東京の外でさえあれば、どこでもいいわ。どんなところでもいいわ。いろいろ、お話がありますの。ね、行きましょうよ。あなたがだめなら、わたし一人で行くわ。」
 駄々をこねるというよりは、無理強いなのである。然し長谷川には、それが心に甘く泌みた。
「行ってもいいけれど、どこといって、僕は知った場所がないし……湯ヶ原にしましょうか。」
「いや、あすこはもういやよ。ほかのところ、どこでもいいわ。」
 考えてるうちに、長谷川はふと思い出した。江戸川べりに、石山がなんどか原稿書きに行った家があり、鄙びて静かで小綺麗だと聞かされていた。果してどんな所か、行ってみなければ分らないが、とにかくそこを持ち出してみると、彼女はすぐ賛成した。
「そこへ、これから行きましょう。」
「これからって、僕はいきなり飛んで来たんだから、研究所にもちょっと顔を出しておかなければならないし、仕度をしに家へもちょっと寄らなければならないし……。」
「あら、わたしだって、このままではどうにもならないわ。」
 三時にお茶の水駅の東口で待ち合せることにきめた。喫茶店を出るとすぐ横の化粧品店で買物をする千代乃と別れて、長谷川はタクシーを拾った。忙しかった。研究所から自宅へ、それからお茶の水駅へと、駆け巡った。
 方向が違った感じである。千代乃が出京したら、手近なところに落着いて、ゆっくり話し合いたいと思っていたのに、慌しく引っ張り出されてしまった。都内はいやだという彼女の気持ちも分らなかった。何事か起ったに違いないが、彼女は少しも匂わせなかった。まあどうにでもなれという棄鉢な思いに、長谷川は身を託した。
 藤色お召のすらりとした和服姿で、彼女は橋のたもとに立って、深い川面を眺めていた。小型の鞄をさげていた。長谷川の姿を見て、いたずらそうな眼付きで笑った。
「それ、僕が持ちましょう。」
 小さな鞄だが、何かぎっしりつまっていて重かった。代りに、彼女は長谷川の折鞄を持った。
 電車はすいていたが、車内では、話すこともなかった。
 電車から降りて、淋しい田舎町を少し行き、ほかの電車の踏切を過ぎ、その先を左へ折れると、河岸の堤防に出た。目指す割烹旅館はまだだいぶ遠そうだった。夕陽が赤く、ゆったりと流れる河水に映えていた。
「わたし、これから、洋服にしようかと思うの。おかしいでしょうか。」
 河の方を眺めながら、千代乃はそんなことを言った。
「夏服はいやだけれど、これからは、洋装もいいわね。」
「趣味としては、そうだけれど、実際は、あべこべでしょう。夏は洋服が凉しくていいけれど、寒くなると、日本服の方が温くていいと、みんな言いますよ。」
「だって、日本服は、働くのに不便ですもの。」
「仕事によりけりでしょう。」
「そう、仕事によってはね。わたし、立って働く仕事がいいか、坐って働く仕事がいいか、ずいぶん考えたけど……。」
「結局、どうなんです。」
「結局、わからなくなったわ。」
 ふふふと彼女は笑ったが、急に真面目な調子になった。
「けれど、働く覚悟だけはきめています。何をしても、構いませんわね。」
「そりゃあ、構いませんとも。構わないけれど……。」
 実行がなかなか困難なことは、彼にもだいたい推察された。そしてぼんやり、敏子のことを思い起した。
「人形の店はどうですか。」
 微笑しながら、彼は、久恵と敏子の人形の話をした。
「敏子さんから、まだ何の相談もありませんか。」
「そんなこと、敏子さんばかりでなく、誰も本気にしやしないでしょう。だけど、人形の店というのは、ちょっといいわね。廊下みたいな狭いちっちゃな店で、人形をいっぱい飾り立てて……。」
「つまり、高級な履物店ですね。下駄や草履がずらりと並んでいる、あれをみな人形だとすれば……。靴店に見立てたっていい。」
「まあ、失礼ね。それより、袋物の店か、画廊……。」
「鞄の店は、どうです。しかし、この鞄、小さいくせにずいぶん重いなあ。なにがはってる[#「はってる」はママ]んです。」
「貴重品ばかり。」と千代乃は笑った。
 散歩のようなぶらぶら歩きだった。西空は靄深くて、夕陽が赤い盆のように見えた。堤防の斜面には、雑草の小さな花が点々と咲いていた。人けの見えない大きな船が、河の真中を滑るように下っていった。
 堤防が低くなり、樹木の茂った丘の麓道となり、河沿いに大きく迂回すると、すぐそこに、目指す家が、ひっそりと静まり返っていた。
 田舎娘らしい女中が出て来、次にお上さんらしいひとが出て来て、二人は二階の奥に通された。簡素に出来てる室で、床の間の山水の軸物の前に、菊の花が活けてあった。
 腰高の壁の硝子戸を開くと、道を距てて、びっくりするほど近く眼の下に、河が流れていた。河幅は広く、その先も河床の広い草地で、向うに高い堤防があった。夕陽はもう靄に隠れたらしかったが、河の面にはまだちらちら光りが浮いていた。
 大雨で水が出たら、この家、どうするのだろう。そのような思いがす
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