を訴える……いや、批評しはしませんでしたか。」
「はっきり記憶していませんが……。」
「それなら、なお結構です。どうもわたしには、いったいに、女がふだんどのようなことを考えているか、さっぱり見当がつきませんのですよ。」
柿沼の言うところは、はっきりしているようでいて、実は、なんだかすべて上の空のような感じがあった。顧みて他を言ってるようだった。長谷川はいやな気持ちになった。
「あなたが言っていられるのは、一般の女のことでなく、千代乃さんのことでしょう。」
「そうです。初めにお聞きした通りです。」
それでもやはり、柿沼は眼を宙にやって、何気ない顔付きをしてるのだった。普通の世間話でもしてるようだった。その調子に、長谷川は乗ってゆけなかった。沈黙が続いた。
「おいやなら、千代乃さんの話はやめてもよろしいです。」柿沼は天井の方へ煙草の煙を吹きあげた。「実のところ、わたしにとっては、あのひとの意向なんかは、もうどうでもよろしいのです。松木君はしきりに気をもんでるようですが、わたしは何とも思ってはいません。ただわたしの悪い癖で、物はすべてその在るべき場所に在ってほしいと、そう思うだけのことで……。」
「在るべき場所と言いますと……。」
「まあ、秩序ですね。何物にもそれぞれの場所がありましょう。椅子には椅子の在るべき場所がある。卓子には卓子の在るべき場所がある。箪笥には箪笥の在るべき場所がある。椅子のあるべき場所に箪笥があったら、これはおかしなことですからね。」
長谷川はなにかぎくりとして、柿沼の顔を見つめた。
「すると、千代乃さんや……僕の場所が、どうこうと仰言るんですか。はっきり言って下さい。」
「いやいや、そんなことではありません。打ち明けて申せば、あなたたちが……つまり、愛し合っていることを、わたしは知っていますし、そのことに異議をとなえるのではありません。それはあなたたちの自由です。そのことについて、わたしが冷淡であり、或るいは無関心であるとしても、それはわたしの自由です。けれども、御存じの通り、千代乃さんの地位というか、場所というか、それについてわたしは、過去に、責任を帯びていました。家内の葬式にあのひとが出て来なかったため、わたしの責任は一応解消されたようなものの、それだけでは、明瞭な解決とは言えません。つまり、あのひとはわたしの室の中にいるのか、わたしの室の外にいるのか、その場所がはっきりしないのです。」
「あのひと自身は、はっきりしているはずです。勿論、あなたの室の外にいます。」
「それなら、そのように、わたしから逃げ廻らないで、きっぱり解決をつけたらどうでしょうか。そうするように、あなたからも勧めおいてくれませんか。」
先刻から、なにか仄暗い靄のようなものが柿沼の表情を包んでいた。五分刈りの大きな頭と浅黒い丸顔は、まだ逞ましい精力を思わせるが、その精力を屈伏さしてしまうような憂暗な影が、額から眼差しにかけて漂っていた。そしてその影が、彼の静かな言葉の冷酷な感じを一層深めた。機械的な或るいは事務的なものの持つ冷酷さである。感情の片鱗も認められなかった。
長谷川はやけに、皿のハムをフォークで突っついた。それがまた自分でも忌々しく思えた。ビールを一気にあおって、柿沼を見つめた。
「あなたの言葉通りを、あのひとに伝えておきましょう。だが、解決をつけるには、どういうことをお望みですか。例えば、あの家から出て行ってしまうことですか。」
「いや、あの家は、わたしの名義にはなっていますが、千代乃さんのものです。いつでも名義変更は致しましょう。」
「それでは、ほかに、どうすればよろしいんですか。」
「わたしと、わたしの娘たちに、はっきり挨拶をして貰いたいものです。」
「千代乃さんから……。」
「そうです。ほかに誰もいないではありませんか。」
長谷川は身内が震えるのを覚えた。
「あなたは、あのひとを侮辱したいんですね。」
「いや、どうして侮辱などと考えなさるんですか。単に形式にすぎないことですよ。」
「形式による侮辱でしょう。分りました。あなたは人間を道具扱いしていらっしゃる。あなたにとっては、人間の感情なんか問題じゃないのでしょう。家庭においても、女房は単に長火鉢にすぎない。きまった場所に据えてありさえすれば、それで充分だ。奥さんが亡くなられたので、長火鉢がなくなった。だから、別な長火鉢が新たに必要になって……。」
「まあお待ちなさい。」
柿沼は長谷川を制して、かすかに皮肉の皺を頬に刻んだ。
「それは、あなたの言われる通りです。女房は家庭においては、一種の長火鉢にすぎないし、茶の間にじっと尻を据えておればよろしい。実際、わたしのような生活をしている者にとっては、茶の間に長火鉢が一つあることが大切で、それがつまり、家庭のしめくくりであり、家庭の慰安でさえもあります。いろり、という言葉の意味は、日本語にしても外国語にしても、あなたにはよくお分りのことと思います。それはまあそれとして、わたしは、亡くなった妻の常子にも、千代乃さんにも、またほかの二三の女にも、すっかり魅力を感じなくなりました。セックスの衰えから来たことかとも思いますが、そればかりではありません。女性というものは結局、男の活動の邪魔になり束縛になることを、多年の経験で知らされたのです。だから、家庭の中にあっては単なる長火鉢で結構、家庭の外にあっては単なる湯たんぽで結構……だが、長火鉢にせよ、湯たんぽにせよ、終始わたしの身辺について廻らないで、在るべき場所をはっきりきめておいて貰いたいものですよ。」
議論ではなくて、告白めいた調子だった。暫く黙ってた後で、彼は突然言った。
「これは、形式主義ではないつもりです。わたしとて、形式をふみ破ることぐらいは知っています。」
ふいに眼を見開いた、とも言える工合に、彼の陰った眼差しは光りを帯びた。
「わたしも、これで、ずいぶん危い橋を渡ってきたし、綱渡りの思いをしたこともあります。その綱の上に、もしも蚯蚓が一匹逼っていたとすれば、踏みつぶして通るよりほかはありません。」
それが、過去のことではなく、現在のことのように、長谷川には受け取られた。とっさに、反抗の気持ちに駆られた。
「どうして蚯蚓なんです。」
柿沼の光った眼差しが、じっと長谷川の上に据えられた。
「なぜ、蚯蚓であって、蛇ではいけないんです。」
柿沼はちょっと小首を傾げた。
「蚯蚓なら踏みつぶして通る、蛇ならよけて通る、ということもありますからね。」
「ほう、そういう意味ですか。なに、蛇だって構いません、踏みつぶして通るだけのことですよ。」
柿沼のうちには、少しも敵意は見えなかった。その眼差しはまた陰ってきた。然し、なにか決定的な距てが二人の間に置かれた。
「これだけお話すれば充分です。」柿沼は独語するように、そして憂鬱そうに言った。「よいところでお逢いしました。ここへは、しばしば来られますか。」
「いえ、めったに……。」
「そうですか。」
柿沼は女給を呼んで、勘定を聞いた。長谷川も、自分のぶんだけの勘定を払った。そして一緒に立ち上った。
スタンドの前を通って、薄暗い階段口のところで、柿沼はちょっと足をとめた。
「あのひとは、長火鉢にも、湯たんぽにも、なれませんよ。そういう人柄じゃない。」
呟くように言って、柿沼は階段を上っていった。長谷川はあとに続いた。地下室のバーから外に出ると、もう肌寒い初秋の夜気だった。まだ柿沼が何か言うかと思って、長谷川は一緒に歩いたが、しばらくして、そのばかばかしさに気付き、立ち止った。すると、柿沼も立ち止った。
並木の影の中で、二人は顔を見合った。帽子をかぶってる柿沼の顔には、何の表情も見て取られず、長谷川は眼鏡の奥で瞳をこらしたがふと、片手をあげて、無帽の長髪をかきあげる身振りをした。それを眼に納めて、柿沼は歩き去った。
長谷川はぴくりと肩を震わし、反対の方へ歩きだした。街路に小石を一つ見つけて、力一杯に蹴飛ばした。
その時、彼はなにか眼覚める思いがした。酔ってもいたが、そればかりでなく、柿沼に魅せられていたような気持ちだ。こちらに弱みがありはしたが、それにしても、彼は自分から何一つ意志表示もせず、柿沼の話だけを聞いて、鼻づらを取って引き廻されたではないか。しかも、柿沼の言葉にしても、どこまでが真実でどこまでが嘘かけじめがつかず、今になってみれば、彼はただ仮面と相対していたようなものだ。しかもその仮面の奥には、人の心情を突き刺すような、傲慢な蔑視の眼がひそんでいた。
長谷川は激しい憎悪の念を覚えた。と同時に、千代乃の面影を胸に抱きしめた。
八
千代乃からはその後、何の便りもなかった。長谷川は仕事をなまけ、酒に親しむようになった。仕事の方は、或る文化団体の事務、詳しく言えば社団法人の研究所の事務整理なので、少々なまけたとて支障はなかったが、酒の方は、時間的に彼の生活を乱脈にした。
彼は兄の家に寄食しており、兄は政党関係の仕事が多忙で、弟のことなど見向きもしなかったが、嫂はしばしば、眉をひそめたり揶揄したりした。
「梧郎さん、どうなすったの。この頃、なんだか荒れてますね。」とも言った。
「梧郎さん、恋愛でもなすってるようね。そんなら、早く結婚なさいよ。」とも言った。
「梧郎さん、身体でもおわるいの。医者に診てお貰いなさいよ。」とも言った。
梧郎はただ笑っていた。夜更しをし、朝寝をし、食欲は乏しかった。あまり朝寝坊をしていると、五つになる男の児がやって来て、彼の布団の上に乗っかって飛び跳ね、むりやりに起した。嫂の指図なのだ。
自分自身をもてあますのが、情愛に憑かれた者の常態なのであろうか。心はいつも、遠いところ、山のあなた、空のかなた、海のはてに、愛する者の面影を偲び、身体だけが現実の世界に残って、やるせない彷徨をする。長谷川は、一週間ばかりの間に、普通の場合の一年間分ぐらいも、東京の街路を歩き廻った。
そのことが、長谷川自身にも、顧みて意外だった。千代乃との関係は、ふとしたチャンスから萠した愛欲で、それが次第に深みに陥っていったのだと、安易に考えていたのだが、その安易な無抵抗な気持ちが、却って彼をぬきさしならぬところへ引きずりこみ、身も心をも捲きこんでしまった。ただ一つ、これは普通の恋愛とは違う、という感情があった。愛欲的要素が多すぎ、精神的要素が少ない、というのではない。真の交感が乏しい、というのでもない。ただなにかしら盲目的な棄鉢なところがあるのだ。千代乃にもそれがある。長谷川にもそれがある。将来への計画とか見通しとかは立たない。千代乃がいくら自立的生活というようなことを手紙に書いたところで、それがどれだけの力を持つものか。
成り行きに任せるということに、長谷川は甘えた。甘えて、そして子供のようになり、千代乃を慕った。
千代乃を待ちこがれて、長谷川は、三田の伯母さん、菊池久恵さんのところをも訪れた。千代乃からは何の消息も来ていなかった。
「あのひとも気まぐれでしてねえ。」と久恵は言い、それから言い添えた。「なにか思いこむと夢中になってしまいますよ。」
そばで、娘の敏子がくすりと笑った。
「あら、おかしいわ。気まぐれと、夢中になるのと、同じことかしら。」
邪気はないのだ。久恵も眼をくるりとさして、ほほほと笑った。
長谷川が招じられたその室は、謂わば久恵の仕事部屋で、いろんなものがごたごたと取り散らされ、そして整理されてるのである。縁側にはミシンがあり、袋戸棚の上には硝子の人形棚があり、鴨居の上に漢書の横額、壁に複製の洋画静物、針仕事の机、針箱、訳のわからぬいろんな小道具、柳甲李など。その甲李の中に、さまざまな裁ち布が一杯、各種の色彩を氾濫[#「氾濫」は底本では「※[#「さんずい+巳」、第3水準1−86−50]濫」]さしている。その小布から手頃なのを選り取って、久恵と敏子は人形の着物を拵えていた。久恵の賃仕事と敏子のデパート勤めとが済んだ宵の、手遊びなのである。
一
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