は眼にしみ、鼻をふさいだ。
 千代乃が出かけてるので、長谷川は遠くへは行けず、家の近くをぶらついた。それから、小さな橋の欄干にもたれて、霧の下を流れる水に見入った。
 ふと顔を挙げると、霧の帷のかなたに、千代乃の姿が、透し絵のように浮き出していた。顔の表情ははっきりせず、洗い髪を左肩に乱しかけ、右手に風呂敷包みらしいものをさげ、腰から下はぼやけている。それが、立ち止って、霧の中からこちらを見ているのだ。
 長谷川はとたんに、虚をつかれた感じだった。
 あれから数日、二人はまったく愛人同士のように暮したのである。同じ卓で食事をし、同じ室に寝、代り番こに留守居をして本館の湯に出かけ、そのくせ、戸に錠をかって一緒にあちこち歩き廻った。
「わたしたちのこと、兄さんもうすうす感づいてるようよ。」
 千代乃はそう言って、屈託もなさそうに笑い、長谷川も頬笑んだ。
 けれども、不思議なことには、二人は情熱をもって抱擁しながらも、心からの愛を誓うことがなかった。彼女は時に黙りこんで、遠い彼方に目をやり、何か考え耽った。彼はうつむいて、あの時の夜明けの、彼女の謎のような言葉をかみしめた。互に踏み越え難い一
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