線、或るいは踏み越えてはならない一線が、暗黙のうちに劃されてるかのようだった。
 その一線は何であろうか。
 今に明るみに曝してやる、と長谷川は考えた。それは愛の親和ではなく、男性と女性との闘争に似ていた。
 霧の中の千代乃の姿は、透し絵のように捉え難い点で、彼の頭の中にある千代乃の象徴とも見えた。
 長谷川はじっと眺めやった。
 千代乃の姿は、やがて、ゆらりと動いて、こちらへ歩いて来た。すぐそばへ、橋の欄干にもたれて、並んだ。
「ひどい霧、こんなよ。」
 肩の黒髪をぱらりと背後へさばき、右腕のあたりの浴衣に左の掌をあてて見せた。霧にしめってるのであろう。それから、右手の風呂敷包みを、帯のところまで上げて見せた。
「いい物を持って来たわ。何だかあててごらんなさい。」
 長谷川は黙っていた。
「こんなとこで、なにしていらしたの。帰りましょうよ。」
「お酒、ありますか。」
「あら、昼間からあがるの。」
「こんな霧だから。」
「じゃあ、霧のはれるまで。」
「そう、霧のはれるまで。」
 歩くのにも、足元があぶなかった。
 家の中にはいると、着物がしめっぽくしっとりしてるのが、はっきり分った。

前へ 次へ
全97ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング