千代乃が持って来たのは、大した物ではなく、鮑五つに栄螺七つ。ただ、取りたてのように生きがよく、形も大きく揃っていた。
それよりも、長谷川の心を打ったのは、彼女が懐から取り出してくれた手紙だった。石山耕平から松月館へ来たのである。
いい加減に書き流した普通の手紙で、居心地はどうか、仕事は出来るか、と尋ねていた。――宿泊料が安いかわりに、建物は粗雑だから、客が込んでると、騒々しいかも知れない。あまりうるさいようだったら、別館というのがあるから、そちらへ移ったらどうか。これは静かで、松月館主人の妹がいるはず。少し変り者らしいが、仕事の邪魔にはなるまい。隙があったら、近々、自分もちょっと行くかも知れない……。
そのなんでもない手紙が、改めて、長谷川の現状をまざまざと見せつけてくれた。もう別館というのへ移ってしまっているのだ。仕事のことはまあよいとして、千代乃にはまりこんでしまっているのだ。
あの夜以来の習慣となったのだが、酒は火鉢の銅壺で燗をする、その酒を長谷川は飲みながら、水貝をすくい、壺焼をつっついた。
「鮑も栄螺も、とびきり生きがいいって、自慢していましたよ。暗いところに伏せて
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