長谷川さん。」彼女は長谷川の眼の中を見入った。「これで、あなたはわたしがいやにおなりなすったでしょう。」
 長谷川は頭を振った。
「ほんとうですか。」
「あなたは清らかです。」
 彼女は眼にふっと涙をためて、長谷川の肩に縋りついた。
「いつまでも、愛してね。」
 長谷川は彼女の額に唇をあてた。彼女の頬には涙が流れていた。
「さあ、もっと飲みましょう。」
 彼女は涙を拭いて、頬笑んだ。それから鞄を開いた。ウイスキー、チーズやハム、菓子や果物、サイダーまであって、それらを彼女は卓上に並べた。
「お夜食よ。」
 もう遅かったし、女中たちは先刻、隣室に布団をのべて、引きさがってしまっていた。
 そしてその夜、千代乃はいつになく積極的だった。それも単に愛欲ばかりではなかった。全身を以て彼にまといつき、彼に密着し吸いつき、少しの隙間をも残すまいとし、彼の中に溶け込もうとした。凍えた者が温い毛布にくるまるように、彼の肉体で身を包もうとした。
「ね、もっともっと、あなたの愛情でわたしを清めて。」
 わたしというのは、彼女の心や精神ではなく、肉体だった。肉体と肉体との接触が、肉体を清めるのであろうか。長
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