ど……。」
「なぜ、ひとを騙して、お線香なんかあげさしたんですか。」
「別に騙したわけじゃなく、初めからそう言ったんでしょう。」
「銀行預金だの、家屋だの、出資だの、そんなことを、どうして言う必要がありますか。」
「それも、万事はっきりさしておきたいためでしょうよ。」
「古いコートのことなんか、どうでもいいではありませんか。」
「きれいさっぱりという、そのつもりなんでしょうよ。」
「いいえ、そんなことでなく、そのぜんたいのこと、ぜんたいの仕打ちです。」
「ちょっと待って下さい。僕を攻撃なすったって……。僕がしたんじゃありませんよ。」
「あなたには分らないんだわ。そんなら、今日のこと、なぜわたしが東京をいやがったか、すこしも察して下さらないのね。」
長谷川には全くそれは分らなかった。彼は黙っていた。
「わたし、ただ、柿沼から逃げ出してしまいたかったんです。」
「しかし、きっぱりと極りがついたんでしょう。逃げ出すなんて……。」
「いいえ、わたしはすっかり穢れているんです。柿沼の女中だったんです。拭ってもなかなか綺麗になりません。古コートを道に叩きつけて、自分も石に頭をぶっつけて死のうかと
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