叱るのでもなく、怒鳴りつけるのでもなく、とっちめるのでもありません。こんなところ、柿沼とよく似ていて、同じ穴の貉とでも言うべきでしょうが、ただ、兄の方がへんに利己的な匂いがし、そして卑屈な感じがします。柿沼の方には、もっと深い怖いものがあります。
 兄との話はそれきりに終りました。兄からも、私からも、日常の些細な用事以外は、なにも言い出しませんでした。そして何事もなく時がたつのが、私にはかえって気懸りになりました。柿沼からもなんの便りもありませんでした。そして柿沼のあの陰鬱な不吉な影が、また私の眼先にちらつきだしました。
 昨日の晩、いえ、昨日の晩といえば昨夜ですから、一昨日の晩のことです。まだ明るいうちに、本館から辰さんがやって来て、旦那が見えませんでしたかと聞きました。いいえと答えると、はて、おかしいな、と首をかしげています。柿沼によく似た人を見かけたのだそうです。
 そのあと、暗くなってからのことです。私は茶の間で書物を読んでおりました。あちらの室で、少しばかりの寝酒をちびりちびりやっていた辰さんが、ふいに、はいと大きな声をして、玄関へ立ってゆき、戸をあけて、しきりに外をすかして
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