う。長谷川も陶然として、彼女に甘えたくなった。
 渓流の音は、不思議にもう耳につかなかった。その代り、空に月が出ていた。長谷川は立ち上り、月を仰いで、それから電燈を消した。室半分、青白い月光だった。

     五

 ――長谷川梧郎に宛てた三浦千代乃の手紙――
 こちらへ帰って参りましてから、十日あまりになります。そしてようやく、なにもかも申し上げられる気持ちになりました。この山の中では、朝夕はもう凉しく、野には秋草の花が咲き、薄の穂が出ておりますけれど、ただいまは夜更け、月や星がきれいでしょうけれど、それも私には無縁、ただ虫の声だけが胸にひびきます。涙ぐんでいるのではございません。夜の深い静けさのなかに、むしろ、頬笑んでいるとでも申しましょうか。けれども、私としては、こんな時に頬笑むのは、泣くよりも、もっと淋しいことですの。
 三田の伯母さんは私に、「あんたは気がかちすぎているから、だめ、」と申しました。ちょっと私の弱点をついたような、それでいて実は理解のない、いやな言葉です。「だめ、」というのは、私の生活の問題についてのこと。御存じの通り、娘の敏子さんはデパートの店員をつとめ、伯
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