だ。そして、本館へ湯にはいりに行った時、お上さんに、明日たつ旨を伝え、勘定書を求めておいた。
「まあ、左様ですか。何にもおかまいもしませんで……。」
 善良なお上さんは、一晩泊りの客にも長逗留の客にも、同じような態度なのだ。
 柿沼がたってしまうと、別館は以前通りの静けさに返ったが、千代乃はなにか苛ら立ち、そしてなにか思いつめてるようだった。
 彼女は二階に長谷川の夕食を運んでき、酒も出してくれた。
「これはわたしから、お名残りのお酒です。大丈夫、柿沼の飲み残しではありませんから。」
 ぶっつけに彼女は言った。
「では、あなたも少しお飲みなさい。」
「ええ、ほんの少し……。」
 彼女は猪口を受けた。
 だが、二人とも黙りがちだった。
「長谷川さん。」彼女はじっと彼の眼を見つめた。「あなたは、どうしても明日、お帰りなさるの。」
「ええ。」
 長谷川は軽く頷いた。
「東京へ?」
「一応、帰ります。」
「明日でなくては、いけませんの。」
「明日と限ったことはありませんが、とにかく、ここをたちます。」
「東京へは、明後日でも宜しいんですね。」
 長谷川は彼女の顔を見たが、表情では何も読み取れな
前へ 次へ
全97ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング