おやすみなさい。」
長谷川は返事をせずに、銚子を取り上げ、コップで飲んだ。
三
柿沼治郎は三泊だけで東京へ帰って行ったが、その中二日間、彼は用件を持っていたらしく、外に出歩いたり、来客があったりした。殊に松月館主人の松木恵一とは、たいてい一緒だった。
長谷川は二階の室に引籠りがちで、仕事に専念しようとした。然し寝ころんでることが多く、とりとめもない妄想に耽っては、あとで、自ら気付いて苦笑した。
心に、隙間があったのだ。その隙間から、なまぬるい風が流れこんできて、ざわざわと、妄想をかき立てる。下品な浅間しい妄想ばかりだった。
濃霧の中を千代乃が持って来てくれたもの、鮑五つに栄螺七つ、それをみな、彼女は自分に食べさせてくれるだろうか、或るいは柿沼の食膳にも出すだろうかと、長谷川はしきりに推測してみた。あの晩たしか幾個食べたから、まだ幾個残ってるはずだ……。
自分で気がついてみると、これは滑稽を通りこして浅間しかった。このようなことをよくも考えめぐらしたものだと、驚かれるのだった。たとえ正確に計算出来たとしても、鮑や栄螺のたぐい、売ってる店はあるだろうし、いつでも、
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