の光りがさしていた。
 長谷川はもうなんにも考えないことにきめ、無心の気持ちを求めて、ぶらぶら歩いた。松月館にいっても、むっつりと黙りこみ、そして長々と湯に浸った。帰りは田舎道を遠廻りして、農家の鶏小屋などを覗いて廻った。
 そして事もなく日が暮れ、早めに戸締りをしてしまった千代乃と、またちょっと酒を飲んだ。御飯は食べる気になれなかった。
 天城登山のことなどを、何気なく話しあった。
「天城山の渓流には、沢蟹がいますか。」
「いますでしょう。」
「この辺には、ちっともいませんね。」
 本館からの帰りに、長谷川は沢蟹を探したが、一匹も見つからなかったのである。
「雨が降れば、出て来ますよ。」
「こないだのような晩にでしょう。」
「あら。」
 千代乃は睥むまねをして、そして笑った。
 死体と沢蟹の話も、もう遠くなっていた。
 突然、裏口の戸が激しく叩かれた。遠慮のない叩き方だった。
 千代乃が立ってゆき、戸を開くと、辰さんが提灯をさげて佇んでいた。
「旦那が見えましたよ。いま、湯にはいっておいでだが、食事は、あちらか、こちらか、さて、どっちかな。なにか、御用はありませんか。」
 家の中まで
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