」は底本では「風もないらしいのに」]、硝子戸がごとりと揺れた。彼女ははっとしたように、長谷川を眺めた。
 長谷川は頬杖をつき、水をがぶがぶ飲んだ。
「お床を伸べましょうか。下でもよろしいでしょう。」
 立ち上ると、足がふらふらとしていた。
 奥の室に布団が敷かれた。長谷川のと、すぐくっつけても一つ敷かれた。
 着物をぬぎ捨てたまま、布団にもぐりこんで、ぐったりとなった。眠るともなく、とろとろとしているうちに、どちらからともなく、互の足先が触れ、次で、互の手先が触れ、それから、どちらが抱き寄せたのか寄り添ったのか、深夜のなかで分らなかった。
 夜明け近い頃、長谷川は遠く鶏の声を聞いた。それと共に、千代乃の言葉をも聞いた。
「御免なさい。わたしが誘惑したのよ。だから、あまり深く想っちゃいけないわよ。」
 それも、果して彼女が言ったのだろうか。言ったとしても、どういう意味だろう。謎の深まってゆくような気持ちのなかで、長谷川はぐっすり眠った。

     二

 ひどい濃霧だった。
 遠くの山はもとより、近くの丘も木立も、一切見えなかった。外を歩いていると、牛乳の中に浮いているような心地で、霧は眼にしみ、鼻をふさいだ。
 千代乃が出かけてるので、長谷川は遠くへは行けず、家の近くをぶらついた。それから、小さな橋の欄干にもたれて、霧の下を流れる水に見入った。
 ふと顔を挙げると、霧の帷のかなたに、千代乃の姿が、透し絵のように浮き出していた。顔の表情ははっきりせず、洗い髪を左肩に乱しかけ、右手に風呂敷包みらしいものをさげ、腰から下はぼやけている。それが、立ち止って、霧の中からこちらを見ているのだ。
 長谷川はとたんに、虚をつかれた感じだった。
 あれから数日、二人はまったく愛人同士のように暮したのである。同じ卓で食事をし、同じ室に寝、代り番こに留守居をして本館の湯に出かけ、そのくせ、戸に錠をかって一緒にあちこち歩き廻った。
「わたしたちのこと、兄さんもうすうす感づいてるようよ。」
 千代乃はそう言って、屈託もなさそうに笑い、長谷川も頬笑んだ。
 けれども、不思議なことには、二人は情熱をもって抱擁しながらも、心からの愛を誓うことがなかった。彼女は時に黙りこんで、遠い彼方に目をやり、何か考え耽った。彼はうつむいて、あの時の夜明けの、彼女の謎のような言葉をかみしめた。互に踏み越え難い一線、或るいは踏み越えてはならない一線が、暗黙のうちに劃されてるかのようだった。
 その一線は何であろうか。
 今に明るみに曝してやる、と長谷川は考えた。それは愛の親和ではなく、男性と女性との闘争に似ていた。
 霧の中の千代乃の姿は、透し絵のように捉え難い点で、彼の頭の中にある千代乃の象徴とも見えた。
 長谷川はじっと眺めやった。
 千代乃の姿は、やがて、ゆらりと動いて、こちらへ歩いて来た。すぐそばへ、橋の欄干にもたれて、並んだ。
「ひどい霧、こんなよ。」
 肩の黒髪をぱらりと背後へさばき、右腕のあたりの浴衣に左の掌をあてて見せた。霧にしめってるのであろう。それから、右手の風呂敷包みを、帯のところまで上げて見せた。
「いい物を持って来たわ。何だかあててごらんなさい。」
 長谷川は黙っていた。
「こんなとこで、なにしていらしたの。帰りましょうよ。」
「お酒、ありますか。」
「あら、昼間からあがるの。」
「こんな霧だから。」
「じゃあ、霧のはれるまで。」
「そう、霧のはれるまで。」
 歩くのにも、足元があぶなかった。
 家の中にはいると、着物がしめっぽくしっとりしてるのが、はっきり分った。
 千代乃が持って来たのは、大した物ではなく、鮑五つに栄螺七つ。ただ、取りたてのように生きがよく、形も大きく揃っていた。
 それよりも、長谷川の心を打ったのは、彼女が懐から取り出してくれた手紙だった。石山耕平から松月館へ来たのである。
 いい加減に書き流した普通の手紙で、居心地はどうか、仕事は出来るか、と尋ねていた。――宿泊料が安いかわりに、建物は粗雑だから、客が込んでると、騒々しいかも知れない。あまりうるさいようだったら、別館というのがあるから、そちらへ移ったらどうか。これは静かで、松月館主人の妹がいるはず。少し変り者らしいが、仕事の邪魔にはなるまい。隙があったら、近々、自分もちょっと行くかも知れない……。
 そのなんでもない手紙が、改めて、長谷川の現状をまざまざと見せつけてくれた。もう別館というのへ移ってしまっているのだ。仕事のことはまあよいとして、千代乃にはまりこんでしまっているのだ。
 あの夜以来の習慣となったのだが、酒は火鉢の銅壺で燗をする、その酒を長谷川は飲みながら、水貝をすくい、壺焼をつっついた。
「鮑も栄螺も、とびきり生きがいいって、自慢していましたよ。暗いところに伏せて
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