い時は、手伝いに、やりっきりにしておりますの。」
「しかし、こちらだって、別館でしょう。」
「そうなんですが……表札を御覧になりまして?」
表札には、松月別館とはしてなく、ただ三浦千代乃とだけあるのだった。
「あ、あなたの家ですか。」
「そういうことになっておりますが、実は、柿沼のものなんです。」
「柿沼……。」
「わたくしの主人ですの。」
柿沼治郎、東京の郊外で、小さな製菓会社を経営している人だとか。然し、千代乃はその主人のことを、あまり語りたくないらしかった。
「柿沼、いやな名前でしょう。わたくし、きらいですわ。」
皮肉めいた微笑を浮べている。名前が嫌いなのか、人柄が嫌いなのか、そのへんのことは曖昧だった。
ふと気がつくと、いつのまにか電燈がともっていた。電力が足りないらしく、ぼんやりともってるので、意識されなかったのであろう。雷鳴はもう遠退いたが、雨がしとしと降り続いている。雷雨のあととも思えないような、しめっぽい降り方だ。
「こんなところに、一人でいらして、よく淋しくありませんね。」
「もう、馴れていますもの。」
そう言いながらも、途切れがちな話の合間には、自然と、外の気配に耳をかすらしい様子だった。
雨音だけがしていた。
千代乃はつと立ち上って、手洗いに行き、それから、裏口、表口、二階と、すっかり戸締りをしてしまった。
「こんな雨の晩、沢蟹がいやですわ。」
家のそばに、小さな谷川があって、雨で水がふえると、沢蟹が岸へ這い上ってくる、それがいやだと言う。
「沢蟹なら、むしろ、可愛いじゃありませんか。」
ところが、実際、いやなことがあったのである。
二キロばかり下手の、渓流に沿って、杉の密林がある。そこに、先月、死体が発見された。行き倒れか、服毒自殺者か、それは分らないが、もう半ば腐爛しかけていて、前夜雨が降り、ずぶ濡れになっていた。その死体に、沢蟹がいっぱいたかっていた。
「ほんとですか。蝿とか烏なら、死体にたかることもありましょうが、まさか、沢蟹が……。」
「おおぜいの人が見たんです。誰にでも聞いてごらんなさい、みんな知っていますよ。」
或るいはそんなこともあるかも知れない。あるとしたら、想像するだにいやな情景だ。半ば腐りかけてる濡れた死体に、沢蟹がうじゃうじゃたかっている……。
「思い出すと、いやーな気持ちですの。」
「いやな気持ちって……あなたも、見たんですか。」
「いいえ、聞いただけですけれど……。」
少し現実すぎる話だ。そんなことより、むしろ怪談の方が他愛なくてよかった。
酒を飲みながら、長谷川は怪談をもち出した。ひとから聞いたり、書物で読んだりした、さまざまな幽霊や妖怪変化の話。
長谷川はもとより、千代乃も、幽霊やお化を信じなかった。然し二人とも、笑いはしなかった。怪談の特質として、たとえそのようなことは信じなくとも、なにか他界の気配に耳を傾けるような、異様な気分になっていった。
すると千代乃は、長谷川の怪談に対抗して、超自然的な異変を持ち出してきた。幽霊やお化は全くの作りごとだが、他にいろいろ不思議なことが実際にあると言う。
親しい友とか身内の者とかが、遠く離れていて死ぬ場合、その人の姿がぼんやりと、枕元に立ち現われる、などという話は嘘だけれど、家の棟に大きな音がしたり、柱が軋り鳴ったりすることは、実際にある。――一家の主人の運命が大きく変転する場合には、その庭の木が、時ならぬ花を咲かせたり、俄に立ち枯れたりすることが、往々ある。――人間の運命と自然現象とは、たいてい気息を通じ合っている。――キリストは、その信仰によって奇蹟を行ったのではなく、逆に、奇蹟に出逢ったことによって、キリストの信仰が大きく展開したのである。
そういう話になると、彼女の肉附きの薄い頬は、酒の酔いもすーっと引くかのように、蒼ざめかげんに緊張し、眼はじっと見据ってくる。
議論の余地はなく、ただ、信ずるか信じないかだけだ。
長谷川は魅入られたような心地になって、酒を飲んだ。
雨はまだしとしと降っていた。
「こんなこと、誰にも話したことありませんの。内緒にしといて下さいね。」
長谷川は彼女の眼を見返した。人間の運命と自然現象との関係のことなら、単なる意見にすぎず、内緒もなにもあったものではない。
「内緒って、そんなこと、まだ何もお話しになりませんよ。」
「そうね、お話ししてもいいけれど……。」
なにか考えこんで、それからふいに、くたりと姿勢をくずした。
「お酒、まだたくさん残っておりますわ。飲みましょう。」
打ち明け話などなにもなく、もう彼女の眼は、睫毛をちらちらさして微笑していた。それだけが室内に宙に浮いて、屋外の闇の深さが感ぜられる夜だった。
風もないらしいのに[#「 風もないらしいのに
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