女心の強ければ
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]
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     一

 松月別館での第一日は、あらゆる点で静かだった。二日目も静かだったが、夕刻、激しい雷雨雷鳴が襲ってきた。
 天候の異変は、却って人の心を鎮める。
 いいなあ、と長谷川梧郎は思った。
 本館では、客がたて込んでいて、騒々しく、仕事など出来そうになかった。もっとも、或る文化団体の嘱託事務のかたわら、際物の翻訳などをやっている、その翻訳の仕事だから、大したものではなく、懶けたとてさほど差支えはなかった。だが、石山耕平から長谷川を紹介された松月館主人は、数日後、長谷川に言ったのである。
「こちらは、あいにく、たて込んでおりまして、お仕事が出来にくいかも知れません。お宜しかったら、別館の方はいかがでしょうか。少し不便ですが、妹が一人いるきりで、静かなことはこの上ありません。」
 それで、長谷川は別館に移ってきた。
 本館から、温泉町を少し通り、裏へそれて、狭い田舎道をだらだら上り、だいぶ行ったところ、丘の裾に、ぽつりと建ってる二階家なのである。あたりには、農家が二つ三つあるきり。浴室はあるが、温泉はまだ通じていない。不便なこと、少しばかりではない。湯にはいるには本館まで行かねばならないし、飯はこちらでたくが、料理は本館から番頭か女中かが運んでくる。
 別館といっても、実は、便宜上の名目にすぎず、特別な客を時折泊らせるだけで、二階が二室、階下が三室、普通の住宅らしい造りである。松月館主人の妹という、三十歳前の女、表札によると三浦千代乃が、一人で住んでいる。
「わたくし一人で、御不自由でしょうけれど、御用はなんでも仰言って下さい。隣りの百姓家のお上さんも、使い走りをしてくれますから。」
 眼を外らさずにじっと見て、てきぱきした語調である。
 小鳥が少し囀ずり、蝉が少し鳴き、淋しいくらいの静けさだ。
 二階の縁側から、天城山が正面に見える。
 西空から差し出てきた積乱雲が、むくむくと脹れ上り、渦巻き黒ずみ、周辺の白銀の一線も消え、引きちぎられたように乱れ流れて、やがて天城山までも蔽いつくすと、一陣の凉風と共に、大粒の雨がさーっと来た。あとはもう天地晦冥、驟雨の中に、雷鳴が四方にこだまし、電光が縦横に走った。それが、いつ止むとも見えなかった。
 長谷川は室に寝ころんで、硝子戸越しに外を眺めた。壮快で、頭の中の塵埃まで洗い流される心地であり、しかもうっとりとしてくるのである。
 雨よ降り続け。雷よ鳴り続け。
 長い時間がたった。
 音もなく、千代乃が立ち現われて、室の入口に片膝をついていた。
「ひどい雷ですこと。二階はあぶないから、下へいらっしゃいません?」
 落雷の危険があるとすれば、二階も階下も同じことだろうし、彼女自身、少しも危ながってはいない様子だ。長谷川がむっくり身を起すと、彼女はもう先に立って降りていった。
 茶の間の長火鉢のそばには、本館から届いたらしい料理が食卓に並んでおり、銚子まで添えてあった。
「今晩も召し上りますでしょう。」
 電気が来ないから、電熱器は使えないというので、長火鉢に炭火をとって、その銅壺で酒の燗をするのである。それでも、山の中の雷雨の夕は暑くはなかった。
「昨晩は、いい御機嫌でしたわ。」
 騒々しい本館からこちらへ移ってきて、気分の調和がとれず、町に出て酒を飲んできたのだった。毎日晩酌をするわけではなかったが、酒は好きだった。
「お酒まで用意して頂いて、恐縮ですね。あなたも、あがるんでしょう。」
「そうね、少し頂こうかしら。」
 独りごとのように呟いて、彼女は茶箪笥から自分の猪口を取り出し、台所から料理の皿を持ち出してきた。
 茶の間といっても、床の間つきの六畳。その床の間には、南画風の山水の軸物に、青磁の香炉、片わきに琴が立てかけてある。長火鉢はきれいに拭きこんであり、彼女は、少し古風なと思われる髪形に、生え際凉しく高めに結いあげ、柳と燕を大きく散らした藍色の着物に、博多の一重帯をしめている。細おもての頬の肉附きが薄く、眼には強い視力がこもっていて、理智的な光りがある。細い指先で、器用にお酌をしてくれる。
「どうも……自分でやりますよ。」
 長谷川はなんだか、気持ちがしっくりしなかった。
 雷はまだやまず、蒼白い閃光が、薄暗い室にぱっぱっと差し込んできた。それが却って酒の肴になり、長谷川は手酌であおり、こんどは、千代乃の方にもお酌をしてやった。
「こちらに、女中さんはいないんですか。」
「一人いますけれど、あちらの方が忙し
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