おけば、幾日ももつんですって。」
 長火鉢の前にぴたりと坐り、水色の地に波の白線を大きくうねらした浴衣の襟元をきつく合せ、散らし髪で猪口を手にしてる、彼女の姿は、なんだか情の薄い冷たさに見えた。
 その長い黒髪を、深夜、長谷川は自分の首にまきつけ、心で泣いたことがあった。けれども、眼に涙は湧かなかったのである。
 霧は濛々として、屋内にまではいってくるようだった。
「これ、見てごらんなさい。」
 石山からの手紙を差し出した。
「見ても、よろしいの。」
 彼女はざっと読んだ。反応は示さない。
「ひとを紹介しておいて、悪口ばかり言っている。」
 彼女は微笑した。
「あなたのことも、変り者だと言っている。どこが変ってるのかしら。」
「それは、石山さんの方が、変っていらっしゃるからでしょう。」
「変り者には、普通のひとが変り者に見える、ということですか。然し僕は、石山と親しくしてるが、変り者とは思いませんね。」
「でも、あのかた、女を軽蔑していらっしゃいます。」
「さあ、それはどうだか……。」
「男のひとって、たいてい、女を軽蔑していますが、それを、隠したがるでしょう。石山さんときたら、おおっぴらに、軽蔑なさるのよ。」
「それで、変り者ですか。」
 ちらと、長谷川の頭に閃めいたものがあった。猪口を置いて、真面目になった。
「あなたは、石山をよく御存じですか。」
「よくは存じませんが、あちらに滞在なすってた時、兄と一緒に、なんどか、遊びにいらしたことがありますの。お酒に酔ってくると、わたしに、琴をひいて聞かせろだの、なんだのって、うるさいかたよ。」
「そして、あなたの方では、石山を誘惑しそこなったんでしょう。」
「誘惑……。」
 小首をかしげて、千代乃は怪訝そうだった。
「僕ははっきり覚えています。御免なさい、わたしが誘惑したのよ、とあなたは、あの朝がた、僕に言いました。」
「あ、あのこと、実は、本当なの。」
 平然と、そして頬笑みさえ浮べて、彼女は話すのである。
 彼女は先ず兄に説いた。本館は騒々しくて、長谷川さんのようなお仕事には無理だろうから、こちらへ移られてはどうだろうか。それを兄が承知すると、彼女は辰さんを解放してやった。辰さんというのは、裏の野菜畑の手入れや本館の雑用などをしてる、臨時雇いの爺さんで、彼女が一人きりの時には、こちらに泊りに来ることになっていた。その辰さんには、長谷川さんが滞在なさるからと言って、近くにある自分の家へ、夜は帰すことにした。それからあの大雷大雨の夜。酒や怪談……。
 余りに淡々と話されると、却って嘘のようだった。
「こちらへも、時々お客さんがあるのでしょう。そんな風に、いつも誘惑なさるんですか。」
「まあ、そんなこと、誰に向って仰言るの。」
「それでは、どうして、僕に目をつけたんですか。」
 彼女は眉根をちらと寄せて、それから急に、真剣な面持ちになった。
「ためしてみたんです。」
「え、僕を。」
「いいえ、わたしのこと。」
「御自分をためしたんですか。」
「もうためしてしまったから、打ち明けましょうか。」
 それがまた、超自然的なことだった。
 或る夜、それも深夜、床の間に立てかけてある琴の、十三本の絃が、じゃじゃんと、一度にかき鳴らされた。そしても一度、じゃじゃんと。彼女は眠っていたのだが、事前にふっと眼を覚して、確かにそれを聞いた。あとはしいんとして、ことりとの物音もない。怪しんで起き上り、そこらを見調べたが、琴にも、どこにも、異状はなく、鼠一匹いなかった。
 翌日の夜、また同じことが起った。
 一種の奇蹟なのだ。奇蹟は、運命の転廻を意味する。それをためしてみたのである。
「あなたを、相手に選んだこと、御免なさい。」
 口では御免なさいと言いながら、少しもあやまってる風はなかった。
「そして、ためした結果は、どうなんです。」
「まだ、ためしただけで、あとのことは、待ってるだけですの。」
 そうなると、これはもうはたから窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]すべからざる事柄だ。
 長谷川は最後の反撥を試みた。
「それにしても、あなたはいいましたよ、あまり深く想ってはいけないと。そのことも、僕ははっきり覚えています。」
 千代乃は黙っていた。
「僕も、もう三十五にもなるし、多少の分別はあります。あなたの迷惑になるようなことはしません。然し、深く想おうと、浅く想おうと、それは僕の自由にさしといて下すっても、いいでしょう。」
「いいえ、違いますの。そんなことじゃありません。」
「では、どういうことですか。」
「わたし自分のことなの。」
「僕は、僕の方のことを言ってるんですが……。」
「違います。わたしのことよ……分らないの?」
 ふいに、片手を差しのべ、彼を打つまねをしかけたが、とたんに
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