その手を引っこめ、ぽつりと瞼にたまった涙を、指の甲で拭いた。それを押し隠すように立ち上って、縁側に出てゆき、硝子戸を開いて、外を眺めた。
 長谷川にとっては、全く思いもかけない所作だった。彼はただ酒を飲むより外はなかった。
 千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
 何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。
「こんど、天城山に登ってみましょうか。」
 それも気まぐれらしいが、天城山なら彼も気が惹かれた。
「行ってもいいですね。」
 もう話を元に戻すすべはなさそうだった。
 彼は残りの酒を飲み、本館へ湯にはいりに出かけた。
 彼女の言ったことすべてが、本当のようでもあり、嘘のようでもあった。何の手掛りもなく、掴みどころがなかった。
 霧のはれるまで……彼はそれを思い出して、口の中で呟いた。
 霧はじっさいはれかかっていた。ぼーっと日の光りがさしていた。
 長谷川はもうなんにも考えないことにきめ、無心の気持ちを求めて、ぶらぶら歩いた。松月館にいっても、むっつりと黙りこみ、そして長々と湯に浸った。帰りは田舎道を遠廻りして、農家の鶏小屋などを覗いて廻った。
 そして事もなく日が暮れ、早めに戸締りをしてしまった千代乃と、またちょっと酒を飲んだ。御飯は食べる気になれなかった。
 天城登山のことなどを、何気なく話しあった。
「天城山の渓流には、沢蟹がいますか。」
「いますでしょう。」
「この辺には、ちっともいませんね。」
 本館からの帰りに、長谷川は沢蟹を探したが、一匹も見つからなかったのである。
「雨が降れば、出て来ますよ。」
「こないだのような晩にでしょう。」
「あら。」
 千代乃は睥むまねをして、そして笑った。
 死体と沢蟹の話も、もう遠くなっていた。
 突然、裏口の戸が激しく叩かれた。遠慮のない叩き方だった。
 千代乃が立ってゆき、戸を開くと、辰さんが提灯をさげて佇んでいた。
「旦那が見えましたよ。いま、湯にはいっておいでだが、食事は、あちらか、こちらか、さて、どっちかな。なにか、御用はありませんか。」
 家の中まで筒ぬけの大きな声だ。
 千代乃はまた戸締りをして戻ってきた。
「柿沼さんですか。」
「そうなの。」
 彼女は落着きはらって、猪口を取り上げ、飲んだ。
「いつも、ふいにやって来るのよ。だから、少しぐらい酔っていたって構やしないわ。」
 だが、長谷川はさすがに落着けなかった。千代乃の様子が、太々しいとさえ思われた。黙りこんで、急いで酒を飲み、二階に上っていった。千代乃があとからついて来て、布団を敷いてくれた。
「あ、忘れていた。髪を結わなくちゃならないわ。」
 長谷川の眼をじっと見て、指先の方を痛いほど握りしめた。
「おやすみなさい。」
 彼女の長い散らし髪が、長谷川の眼の底に残った。
 久しぶりに寝る二階の寝床は、なにか新鮮な感じだった。彼は腹這いになって煙草をふかした。
 千代乃がまた上ってきた。お盆の上に、銚子と猪口、薬缶とコップが並べられていた。
「どちらでも、およろしい方を。」
 そして眼でちらりと笑った。
「さっきね、辰さん、あれで、気を利かしたつもりなのよ。分って?」
 味方があるから大丈夫だというつもりなのであろうか。けれども、長谷川はそのために却って苛ら立ちを感じた。
「おやすみなさい。」
 長谷川は返事をせずに、銚子を取り上げ、コップで飲んだ。

     三

 柿沼治郎は三泊だけで東京へ帰って行ったが、その中二日間、彼は用件を持っていたらしく、外に出歩いたり、来客があったりした。殊に松月館主人の松木恵一とは、たいてい一緒だった。
 長谷川は二階の室に引籠りがちで、仕事に専念しようとした。然し寝ころんでることが多く、とりとめもない妄想に耽っては、あとで、自ら気付いて苦笑した。
 心に、隙間があったのだ。その隙間から、なまぬるい風が流れこんできて、ざわざわと、妄想をかき立てる。下品な浅間しい妄想ばかりだった。
 濃霧の中を千代乃が持って来てくれたもの、鮑五つに栄螺七つ、それをみな、彼女は自分に食べさせてくれるだろうか、或るいは柿沼の食膳にも出すだろうかと、長谷川はしきりに推測してみた。あの晩たしか幾個食べたから、まだ幾個残ってるはずだ……。
 自分で気がついてみると、これは滑稽を通りこして浅間しかった。このようなことをよくも考えめぐらしたものだと、驚かれるのだった。たとえ正確に計算出来たとしても、鮑や栄螺のたぐい、売ってる店はあるだろうし、いつでも、
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