買えるだろう。ばかばかしいことだ。また、あの残りを彼女が柿沼に食べさせようと食べさせまいと、そんなことにいったい何の意味があるか。
一種の嫉妬であったろうか。嫉妬には灰汁の苦さと蜜の甘さがあるものだが、それがなかった。
長谷川は朝食がおそく、昼食をぬきにして、夕食をとる。その給仕は、本館から来る女中がすることもあり、千代乃がすることもあった。だが彼はむしろ、独りでゆっくり食べることを好み、千代乃を階下へ追いやった。
「分ってるわ。気になさらないでね。」
千代乃の態度には、何のこだわりも見えなかった。それが却って、長谷川には物足りなかった。
千代乃ばかりではなく、松木にせよ、柿沼にせよ、ほとんど長谷川を眼中に置いてないかのようだった。他の来客と一緒に、酒宴をし、高笑いをした。それが実は、当然だったとも言えよう。二階の一旅客に気兼ねする理由など、全くなかったはずだ。
然し長谷川にしてみれば、それが、自分の地位の急な転落とも感ぜられたのである。謂わば、主賓から一挙に居候に成り下ったのである。あてがいぶちの食事をぼそぼそ食べ、そこにごろりと寝ころんで、暮れかかった空を眺めていると、へんに佗びしい気持ちになった。食後の皿小鉢をさげにさえ、誰もなかなかやって来ないのである。
「もうお済みになりまして?」
千代乃が上って来て声をかけても、彼は起き上らず、返事もしなかった。
千代乃は縁側に佇んで、彼方の天城山の暮色を眺めた。
「ひまになったら、天城山に登りましょうね。」
彼はただ機械的に頷いて、心の中では、ひまになったら、とその言葉を苦々しく繰り返した。
すべてなにもかもひまになったら、だった。彼女はいま、ひまではないのだ。主人の柿沼の相手をし、兄の松木の相手をし、其他の人々の相手もしなければならないのだ。そんなことのために彼女は存在しているのであろうか。
惜しい……その思いに長谷川はぶつかった。惜しい、そして残念だ……。
彼女の面影が、宙に浮き出してありありと見えてくる。強い視力のこもってる眼が、じっとこちらを見ているし、肉附きの薄い細面の頬が、きっと引き緊って蒼ざめている。何かを待っているのだ。
あのまま、あんな連中のなかに、打ち捨ててはおけない。惜しい、そして残念だ。
この感情を愛そのものだとは、長谷川は自認しかねた。然し、憐愍には甚だ遠く、恋愛に甚だ近いものだった。しかもいま、彼は彼女の相手になり得る地位にいないのだ。
長谷川は突然立ち上って、外に出で、町や野道を歩き、ビールを飲み、煙草をふかし、それでも自分自身をもて余して、帰って来、また室の中に寝そべった。
階下からは、琴の音が響いてきた。千代乃が弾いているのだ。不思議なことに、彼女はこれまで琴に手を触れようとしなかったが、柿沼が来てからは、ひまさえあれば琴を弾くようになった。コロリンシャン、コロリンシャン……やたらにひっかき廻している。それも柿沼へのサーヴィスなのであろうか。いや、なにか違う。
長谷川が寝ころんで聞いていると、琴の音はいつまでも絶えそうになかった。彼は琴曲のことには不案内だったが、歌物ではないらしく、ただ手の技を主とする緩急高低の音色の連続だ。変化はあっても似たり寄ったりで、人の精神へではなく情緒へだけ絡みついてくる。何を訴えようとしているのであろうか。
長谷川は、また、謎を投げつけられたような気持ちになるのだった。琴の前に坐ってる千代乃の姿は、想像しただけでも、あの洗い髪の彼女と、あの理知的な彼女と、両方に引っ張りだこになって、しっくりした落着きがなかった。
このことで、長谷川は更に苛ら立ちを覚えて、琴の音から気を外らそうとした。室の中を飛び廻ってる蝿に、注意を集めてみた。その羽音がどこかに消えると、琴の音も遠くかすかになり、やがて、足音もなく千代乃が立ち現れて、にっこりと眼付きで笑みかけ、指先を痛いほどきゅっと握りしめる……自惚れきった妄想だ。
彼はいつも、ひとり放り出されていたに過ぎない。
だが、この間に長谷川は、爺やの辰さんから、いろいろなことを聞き出した。辰さんはこちらに用がふえて来てることが多く、合間には畑の野菜物、遅蒔きの茄子や大根の手入れをしていた。その仕事を長谷川が通りがかりに佇んで眺めていると、辰さんの方からしばしば話しかけてきた。つまらない世間話ばかりだったが、その中には千代乃のことも出て来た。
千代乃と兄の松木恵一との姓が異ってるのは、千代乃は母方の三浦姓をついでるからだとのこと。また、柿沼治郎には本妻があって、もう長年、肺の病気のため、どこかの療養所にはいってる由。その本妻の没後には、柿沼は千代乃と正式に結婚する約束になってる由。
辰さんはずけずけと口を利いた。
「松月館も、先代までは盛んなもん
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