でしたよ。それが、今はあの通り、まあ三流どころになったもんだから、旦那がやきもきなさるのも無理はありませんや。」
やきもきの内容というのは、つまり、若月という、家は小さいが一流の旅館が、内々で売り物に出てるのを、柿沼外数名に出資させて、買収しようとかかってることらしい。
そういう商売上の事柄は、長谷川にとっては興味もなく、秋茄子の話や大根の間引きの話の方が、よほど面白かった。
辰さんは不平を言った。
「奥さんも訳がわからん。お客さん一人の時は、泊りに来ないでいいと言っといて、御亭主が見えるというと、またわたしを泊らせるんですからなあ。もっとも、用もふえたがね……。」
そんな何気ない言葉に、却って、長谷川は虚をつかれるような思いがした。一方、やけくその気持ちも動いた。ともすると、千代乃を愛してるのか憎んでるのか、分らなくなることもあった。
そして最後に、思いがけないものにぶつかった。
朝の陽差しが煙るように陰り、さーっと細い雨がきて、それが暫く降り続き、また急に陽が照ってきた。その雨脚や陽脚を、長谷川は二階から眺めていたが、ふと、庭の片隅に眼がとまった。自然石が配置されてる石南花の茂みの中に、鳥らしいものがひそんでいる。鶏か鳶か鷹か、とにかく大きなやつで、地面に頭を突っ込むようにしている。それが、いつまでもじっと動かない。何かを食おうとしているのであろうか。何かに捕えられているのであろうか。身動きをしない。
長谷川は急いで降りてゆき、玄関の下駄をつっかけて、見に行ってみた。側で見ると、思ったほど大きくはなく、普通の山鳩で、頭をぐったり地面に押しつけ、横倒しになっている。死んでるのだ。褐色の羽子に雨滴がたまっている。
その山鳩の足先に、長谷川は手を差し伸べた。濡れた死体は硬ばっていて、ぶらさげても、びくともしなかった。ぶらさげて、さてどうしようかと、長谷川は迷った。
「山鳩のようですね。」
縁側から声がした。頭髪を五分刈りにした男がそこに立っていた。長谷川は前に見かけたことがあるので、柿沼治郎だと分った。
「死んでいますね。その辺に置いといて下さい。あとで片付けさせましょう。」
全く無関心な、冷やかな調子だった。
長谷川は山鳩の死体を庭石の上に置き、手を打ち払い、本能的に煙草を浴衣の袂にさぐったが、無かった。
柿沼は縁側に煙草盆を持ち出した。
「さあ、どうぞ。」
招ぜられるまま、長谷川はやって行き、煙草を一本取り上げた。
「毎日、御勉強のようですね。」
「いや、つまらん仕事です。」
「御挨拶もしませんでしたが、少し、お邪魔だったでしょう。今日、午後、たちます。あとはまた静かですから、ゆっくり御逗留なすって下さい。」
事務的に響く淡々とした調子だった。
その時、長谷川は、後々まで残る深い印象を受けた。――山鳩の死体をぶらさげてた自分の滑稽な恰好。遠くから視線を交わしたことはあるが、初めて近々と出会ったのにしてはおかしな対話。それらのことをも忘れるほどの印象なのだった。
柿沼は背がやや低い方で、頸は短く、肉付きは逞しく緊っており、五分刈りの頭は大きく見え、顔は浅黒く、鼻の太い丸顔……まあ普通に見かける事業家のタイプだった。ただ、その眼差しに、なにか陰にこもった影があった。直接に相手を見ないで、紙一重ごしに覗ってるというところがあった。松月館主人の眼差し、相手の意向に迎合しながら別なことを考えてるような眼差しとは、全く別種なもので、初めから相手の意向などは無視し、しかも自分自身をも影の中に潜み隠してるのである。言葉の冷淡な無関心な調子も、それに由るのであろうか。更に、その眼差しに宿ってる一種の影は、憂暗な色合を帯びていて、額の上まで拡がっている、というよりは寧ろ、額全体に憂暗なものが漂っていて、それが眼差しにまで影を落しているのだ。
そういう印象に、長谷川はなにか心暗くなり、柿沼の顔から眼を外らした。
「お邪魔しました。」
言い捨てて、歩きだし、それから、手の煙草も投げ捨てた。
烙印、額に烙印、というものがあるとすれば、柿沼の憂暗の影はそれではなかろうか。
長谷川は掌で、自分の額をしきりにこすった。
今まで忘れていたというのではないが、なんとなく避けていたことに、彼は思い当った。
もう、千代乃に対する本心を、はっきりさせなければならないのだ。たかが柿沼の第二号と……そんなふざけたことではない。一個の三浦千代乃とのことだ。
一人になって考えてみよう、と彼は思った。柿沼がたってしまえば、もう、どこへ行こうと、誰かに、或るいは自分の気持ちに、ここから逃げ出したと後ろ指をさされることもないのだ。
朗かとまではゆかず、悲壮めいた気持ちで、長谷川は林の中を歩き、渓流のほとりをさまよい、水車のそばに佇ん
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