だ。そして、本館へ湯にはいりに行った時、お上さんに、明日たつ旨を伝え、勘定書を求めておいた。
「まあ、左様ですか。何にもおかまいもしませんで……。」
善良なお上さんは、一晩泊りの客にも長逗留の客にも、同じような態度なのだ。
柿沼がたってしまうと、別館は以前通りの静けさに返ったが、千代乃はなにか苛ら立ち、そしてなにか思いつめてるようだった。
彼女は二階に長谷川の夕食を運んでき、酒も出してくれた。
「これはわたしから、お名残りのお酒です。大丈夫、柿沼の飲み残しではありませんから。」
ぶっつけに彼女は言った。
「では、あなたも少しお飲みなさい。」
「ええ、ほんの少し……。」
彼女は猪口を受けた。
だが、二人とも黙りがちだった。
「長谷川さん。」彼女はじっと彼の眼を見つめた。「あなたは、どうしても明日、お帰りなさるの。」
「ええ。」
長谷川は軽く頷いた。
「東京へ?」
「一応、帰ります。」
「明日でなくては、いけませんの。」
「明日と限ったことはありませんが、とにかく、ここをたちます。」
「東京へは、明後日でも宜しいんですね。」
長谷川は彼女の顔を見たが、表情では何も読み取れなかった。
「どういう意味ですか。」
「いえ、それだけ承っておけばいいんですの。」
長谷川は言質を取られたのを感じた。そのあとは、とりとめもない言葉だけで、そして沈黙がちな食事。
千代乃はなにか忙しそうだった。
夜は、辰さんが早くにやって来て、早く寝てしまった。
長谷川も早めに寝た。自分でも案外なほど、千代乃の肉体に未練を感じなかった。余りに考えすぎたからだったろうか。
四
風があって、空には白い雲が飛んでいた。その朝になって長谷川に千代乃は言った。
「わたしも、ちょっと東京へ行くことにしましたの。御一緒にね。途中、湯ヶ原で降りましょう。天城山の代りよ。」
彼女は楽しそうに笑った。昨夜とちがって、何の屈託もなく朗かそうだった。
長谷川は呆れた。だが、もう成り行きに任せようと覚悟をきめた。
松木夫婦や女中たちの見送りの手前も、彼女は平然と、長谷川に続いて自動車に乗りこんだ。
時間はゆっくりあった。国鉄本線へ乗り換える前、三島神社で遊んだ。
「あなた、別館へと言って、別にお茶代をお置きなすったわね。今朝兄さんからあれを貰って、わたしへんな気がしたわ。」
神社の境内で、彼女は突然そんなことを言いだして、くくくと笑った。
襟元凉しく髪を取り上げ、はでな明石縮に絽の帯、白足袋にフェルトの草履、そしてハンドバッグに日傘、ちょっと物見遊山という身なりだった。その側で長谷川は、色あせた麻服の自分を、供の男めいて顧みられ、上衣をぬいでやけにシャツの襟をひろげた。
湯ヶ原の旅館は、その嫁さんが千代乃のお琴友だちとかで、前夜の千代乃の電話で、室の用意がしてあった。渓流に上高く臨んだ室で、水音はうるさいが凉しかった。
湯を一浴びしてから、千代乃は嫁さんのところへ行き、なかなか戻って来なかった。長谷川は水音に耳をかしながら、うっとりと仮睡の心地にあった。神経がへんに疲れてるようだった。
夕食の料理が運ばれて来たのは遅く、それとほとんど同時ぐらいに千代乃は戻って来た。
「御免なさい。久しぶりだったものだから、すっかり話しこんでしまって……。」
そんなことはどうでもよく、長谷川はただ投げやりな気持ちで、酒の猪口を取り上げた。
「あなた、前からそんなに、お酒あがっていらしたの。それとも……。」
「それとも……なんですか。」
千代乃の眼に光りが湛えた。
「わたしとのこと、後悔なすってるんじゃないの。」
「どうしまして。光栄としてるんです。」
「冗談ぬきにしてよ。なんだか不機嫌そうね。」
「不機嫌どころか、これで、たいへん嬉しいんです。」
そんな言葉がすらすら出るのが、長谷川自身でも意外だった。たしかに、松月館とは気分が違っていた。
「今日は、真面目にお話したいことがあるのよ。だから……。水の音がちょっとうるさいわね。」
「なあに、聞きようですよ。僕はさっき、あれを聞きながら、うとうとしちゃった。あ、ここのお嫁さん、あなたの琴のお友だちですって。水音も、お琴の音みたいなもので……。」
「あら、こないだのことを言っていらっしゃるの。」
彼女は声を立てて笑った。
「あれ、わたしの策略よ。大成功だったわ。」
彼女はそれを独りで楽しむかのように、なかなか話さなかったが、いちど口を切ると、例の通り、明けすけにぶちまけてしまった。
つまり、辰さんの話の若月旅館の一件なのである。松木はそれを買い取ろうと、盛んに柿沼を口説いた。柿沼の方でも、大規模の製菓会社がいろいろ出来てきた現在では、彼の小さな会社は、戦後の一頃のような利益がないばかりか、次第
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