に経営さえ困難になって来たので、もともとその土地出身者ではあり、松木の旅館業経験をたよりに、後図をはかる気にもなって、二、三の共同出資者を物色し始めた。その方はまあそれとして、若月旅館をいったい誰が実際に切り廻してゆくか。人任せには出来ない。大体のことは松木がやるとしても、松木には松月旅館があるし、松木の妻も善良すぎて手が廻りかねるし、結局千代乃を実務の監督に据えようと、そこに話が向いてきたものらしい。前々からの懸案なのである。
「このわたしを、宿屋のお上さんに、そして女中頭に、すえようとたくらんでるのよ。ねえ、この年齢で、可哀そうでしょう。」
 だから、千代乃は反対をとなえた。然し、いくら嫌だと言い張っても、むつかしい条件をいろいろ持ち出しても、結局は無視されそうになったので、最も単純素朴な策略を思いついたのである。お琴の勉強をほんとにやりたくなったので、たとえ若月旅館にはいるとしても、毎日、朝から晩まで、お琴ばかり弾くが、それでもよいか。例えばこんな風にと、彼女は示威運動に、あの二日間、一生懸命に琴をかき鳴らした。
 長谷川は腹をかかえて笑った。
「呆れたひとだ。」
「呆れたでしょう。柿沼も兄さんも呆れかえって、話はうやむやになっちゃったの。でもわたしの方は、おかげで、忘れかけてた千鳥の曲のおさらいがすっかり出来てしまった。」
 得意そうに微笑してる彼女は、まるで無邪気な少女のように見えた。だが、薄暮の空遠くに眼をやって、呟いた。
「窮すれば、通ずる……。」
「しかし、温泉旅館のお上さんというのも、わるかありませんよ。」
「女中頭にしたって、そりゃあそうよ。」
「普通のひとの羨むぐらいな、りっぱな地位身分じゃありませんか。」
「地位身分……そうだわ。それがわたしの気に入らないの。」
「それじゃあ、ただの女中なら?」
「同じことです。」
 きっぱり言いきって、彼女は眼を見据えて考えこんだ。
「わたし、便利すぎたんだわ。」
 なんのことか、長谷川には分らなかった。
「何にでも役立つという、便利なものがあったら、面白いでしょうね。室の中の、ここがすいてるからと、そこに据える。ここが淋しいからと、そこに据える。こんな役に立つといっては、それに使う。そのような便利な道具があったら、面白いでしょうね。」
 皮肉な影が眼に浮んでいた。
「宿屋のお上さんに、丁度いい。女中頭に、丁度いい。病気の女房代りに、丁度いい。お妾さんに、丁度いい。第二夫人に、丁度いい。別荘番に、丁度いい。何にでも役に立って、便利なんだわ。」
 顔をきっと挙げて、まともに長谷川を見た。
「長谷川さん、あなたまでが、情婦に丁度いい、なんて言ったら、承知しないわよ。」
 言葉はヒステリーみたいだが、調子は少しふざけていて、眼にはまだ皮肉な影があった。
 長谷川もそれに応じた。
「それじゃあ、千代乃さん、色男に丁度いい、なんて言ったら、僕も承知しませんよ。」
「承知しないで、どうなさるの。」
「殺してしまう。」
「そんなら、わたしも、あなたを殺そうかしら……。」
「ええ、どうぞ。」
「死んで下さる?」
「殺されたら、死ぬより外はないでしょう。」
「そうね、殺されたら死ぬより外はない……。」
 突然、一陣の風のように、真剣な気合が流れた。
「誓いましょう。」
 彼女に応じて、長谷川が手を差し出すと、その五本の指を、彼女は力一杯に握りしめた。
「痛い。」
 長谷川は手先をうち振った。彼女はまた手を差し出して挑んだ。その五本の指を、長谷川は力こめて握ってやった。細そりした指先だが、彼女は別に痛がらず、長谷川は力ぬけがした。
 黙っていると、川の水音だけが耳につく。たいへん深い下の方を流れるような水音だった。戸外はもう暗い夜だった。
 千代乃は女中を呼んで、酒を求めた。
「今晩、酔ってもいいでしょう。その代り、すっかりお話しするわ。」
「そう、泥でも砂でも、吐いてしまいなさい。」
「まるで、罪人のようね。罪人かも知れないわ。わたし、復讐したんだから。」
「復讐……僕に?」
「まあ、せっかちね。」
 千代乃の言葉は、断片的で、独断的で、まるで飛石伝いに歩くようなものだった。
 それを総合してみれば、つまり、彼女は柿沼や松木に復讐したのである。彼女を現在の境遇に陥れたのは、柿沼と松木との共謀によるもので、柿沼の病妻の死後には正式に結婚するという約束はあるにせよ、共謀の裏に相互の利害関係がひそんでることは確かだった。彼女は物品の如く売買されたのだ。そして彼女はなにも知らないうちに、ほとんど暴力的に肉体を奪われた。そして今度は、甘言を以って、旅館経営に徴用されかかっていた。そこに一度はいり込んだら、もう恐らくは一生、脱け出すことは出来ず、五十歳近い柿沼の最後の看病にまで、利用されることであ
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