ろう。愛情もなく、生き甲斐もないのである。彼女は反撥し、反抗した。嘗て彼女も、恋愛を経験したことがあり、相手の男は戦争中に陣没したが、忘れかけていたその青春が、また芽を出した。長谷川が、どこやらその男に似ていたのだ。身を以てする復讐、そして身を以てする復活。彼女は長谷川を虜にした……。
そこまでは、甚だ平凡であり、通俗小説の筋書きに等しかった。
然し、彼女の心理には、特殊なものがひそんでいた。超自然的な奇蹟、人間の運命、その両者の関連など、普通の理知からはみ出した信念があった。深夜に琴がひとりでに鳴り響いたのも、彼女にとっては一種の啓示であり、あの日の大雷雨も、彼女にとっては一種の啓示であった。そして長谷川との肉体の交渉は、到達点ではなく、出発点に過ぎなかった。出発して、そして何処に到るかは、ただ神のみぞ知る。
千代乃は、頬の皮膚を薄紙のように張りきり、眼に深い光りを漲らして、長谷川を見つめた。
「覚悟していらっしゃい。わたし、もう一生あなたを離さないし、あなたから離れないから。」
長谷川もいつしか、覚悟をきめていた。
遁れられない運命だと、なんとなく彼女の説にかぶれかかっているのである。
「僕だって、もう覚悟はしている。その代り、あなたも、あの言葉は取り消しますね。あまり深く想っちゃいけないということ……。」
「あの時はそうだったの。でも、今は違います。」
「では、条件なしですね。」
「ええ、無条件。」
無条件の……降伏か、勝利か……そんなことが、ちらと長谷川の頭に浮んだが、彼はすぐ眉をしかめた。まるで違ったものだ。そして無条件ということは、ひどく自由であると共に、ぬきさしならぬ感じだった。
「無条件に……。」彼女は言葉を探す風だった。「生きていきましょう。」
長谷川は頷いた。
「わたし、東京には、三田に伯母さんがあるから、柿沼のところには行かないで、そちらに泊ることにしているの。あなたのこと、その伯母さんに打ち明けて構いませんか。」
「構いません。」
「分ったわ。大丈夫、打ち明けなんかしません。でも、遊びにいらしてね。いい伯母さんよ。」
「それでも、なんだか……。」
「いやよ。毎日来て下さらなくちゃ、いや……。」
駄々をこねるように、彼女は長谷川の肩に頭をもたせかけて、身体ごと揺った。酔ってるのか、甘えてるのか、恐らくは彼女自身にも分らなかったろう。長谷川も陶然として、彼女に甘えたくなった。
渓流の音は、不思議にもう耳につかなかった。その代り、空に月が出ていた。長谷川は立ち上り、月を仰いで、それから電燈を消した。室半分、青白い月光だった。
五
――長谷川梧郎に宛てた三浦千代乃の手紙――
こちらへ帰って参りましてから、十日あまりになります。そしてようやく、なにもかも申し上げられる気持ちになりました。この山の中では、朝夕はもう凉しく、野には秋草の花が咲き、薄の穂が出ておりますけれど、ただいまは夜更け、月や星がきれいでしょうけれど、それも私には無縁、ただ虫の声だけが胸にひびきます。涙ぐんでいるのではございません。夜の深い静けさのなかに、むしろ、頬笑んでいるとでも申しましょうか。けれども、私としては、こんな時に頬笑むのは、泣くよりも、もっと淋しいことですの。
三田の伯母さんは私に、「あんたは気がかちすぎているから、だめ、」と申しました。ちょっと私の弱点をついたような、それでいて実は理解のない、いやな言葉です。「だめ、」というのは、私の生活の問題についてのこと。御存じの通り、娘の敏子さんはデパートの店員をつとめ、伯母さんはその方の関係で、針仕事をしたりミシンをふんだり、そして二階は二人の学生に間貸しをして、それでじみに暮しております。私もそのように、自分で働いて生活したく、いろいろ尋ねたり相談したりしましたが、結局、私は気が勝ちすぎているからだめだそうです。自分の腕で働いてじみに暮すには、私には我慢が足りない、辛棒がしきれない、というのでしょうか。
けれども私は、どのような苦しいことでも、どのような辛いことでも、やってみようと決心しておりました。覚悟をきめておりました。敏子さんのように、デパート勤めも致しましょう。伯母さんのように、針仕事やミシン仕事も致しましょう。出来ることなら、ダンスを習ってダンサーにもなりましょう。こちらで旅館の仕事を少し手伝ったことがある経験を生かして、小さな酒場を開いてもよろしく、場合によっては芸者になっても構いません。芸者は少くとも愛情によって行動出来ます。今の私の生活は、檻の中に入れられてる売女に等しいではありませんか。そこから脱出しなければならないと、一生懸命にもがいておりました。気紛れではございません。
それを、伯母さんは少しも真に受けてくれませんでした。あ
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