なたに御相談したこともありますが、あなたはいつもにやにや笑ってばかりいて、本気で聞いて下さいませんでしたわね。もっとも、私の話しかたも少しふざけておりましたし、そのようなことよりも、私たちにはもっと重大なことがありました。ほんとの愛情がありました。この愛情のためになら、死んでもかまわないと、今では私は思っております。
 東京での日々は、ほんとに楽しゅうございました。伯母さんの家へいらして下すったことも、嬉しく思っております。もっとも、初めは私からお願いしたのでしたが、毎日のように訪ねて来て下すったのを、あなたの愛情の深さの故だと感じております。御一緒に出歩いて、コーヒーを飲んだり、映画や芝居を見たり、ホテルへ参ったり……そしてなにをお話したか、言葉の上のことはすっかり忘れてしまいました。
 でも、ふと言葉がとぎれた時、しぜんに黙りこんだ時、あなたはなにか考え込んでおしまいなさることがありました。あのホテルの室で、窓際に両肱をついて、暗い夜空にぼんやり眼をやっていらっしゃるので、私はそっと時計を見てみましたら、あなたは十分間、きっかり十分間、振り向きもなさらず、身動きもなさいませんでした。その放心というか、瞑想というか、沈思というか、そのような折のあなたの胸の中に忍びこんで、その奥底を私は打診したかったのですが、やめました。なにも、後悔していらっしゃることなどないと、信じますもの。けれど、こんどは、今後はあなたのその胸の中に、私は遠慮なく忍びこんで、そこに手を触れてみますから、覚悟していらっしゃいませ。
 けれども、実は、そんなことはどうでも宜しいのです。あなたの胸に、なにか後悔の影みたいなものがちらと差そうと、もう私は気に致しません。私自身、どんな手傷を受けようとも、もう気に致しません。
 柿沼に復讐してやる下心も、私にあるにはありましたが、その復讐も、向うには少しも手傷を与えず、却って私自身が手傷を受けたようです。私自身というのがわるければ、私の過去が、手傷を受けたのです。私はただ、自分の過去に復讐したに過ぎないのかも知れません。
 しかし、過去のことなんかどうでもよい、自分は新らしく復活したのだと、私は信じもし、感じてもおりました。過去をして過去を葬らしめよ、将来をして将来を生かしめよと、私は心の中で叫んでおりました。生活の立て直しをはかったのも、そのためでした。
 ところが、思いがけないことが起ってきました。
 その前に、申しておかなければならないことがあります。三田の伯母さんの家に滞在して、あなたから来て頂いたり、御一緒に出歩いたり致しましたが、その陰に、実は度胸をすえていたことがあります。伯母さんを、そしてあの家を、柿沼はよく存じているのです。以前、私は、柿沼の阿佐ヶ谷の家に行ったり、伯母さんの家に行ったりしていましたが、近頃では、伯母さんの家にしか泊らないことにしておりますし、柿沼は用事があれば、伯母さんの家へやって来ることになっていました。それで、こんども、柿沼が来るかも知れないが、来るなら来てもよいと、度胸をすえていたのです。
 柿沼は一度も来ませんでした。もっとも、私が東京に出たことを、柿沼には知らせていませんでしたが、兄からたぶん知らせたことでしょう。また、伯母さんに私から柿沼の来否を尋ねたことは、一度もありませんでしたが、伯母さんも私に柿沼のことは一言も申しませんでした。お互に、知らん顔をしていたのです。あなたのことについても同様です。
 はっきり申しましょう。私は度胸をすえてはいたものの、柿沼が一度も来なかったこと、或るいは来なかったらしいことが、却って私には気重いものとなって感ぜられました。私は柿沼に反感をこそ懐け、一片の愛情も持ってはいませんし、また、あなたにそっと打ち明けましたように、もうだいぶ前から口実を設けて、柿沼とは性的交渉を絶っていました。それなのに、伯母さんの家へ一度も柿沼が私を訪ねて来なかったことを、どうして気にかけたのでしょうか。
 外でもありません。私は柿沼をなんだか怖がっていたのです。あなたは柿沼をよく御存じありませんけれど、あの人のうちには、なにか重苦しいもの、陰鬱なもの、凶悪らしいものがあります。悪人だとさえ思われることがあります。表面きって私と喧嘩することもなく、私を怒鳴りつけることもなく、癇癪を起すこともなく、いつも黙ってじっとしておりますが、心の中ではどんなことを考えているか、どんなことをたくらんでいるか、それが私には恐ろしいのです。しごく冷静に計画的に、ひとを殺すことさえしかねないと、私はぞっとすることがあります。
 そういう危惧の念、不吉な感じは、あの人の実体……と申してはへんですが、あの人の身体が、遠くにかすんでゆくに随って、ますます濃くなって私につきまとってくる
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