自分自身をもてあますのが、情愛に憑かれた者の常態なのであろうか。心はいつも、遠いところ、山のあなた、空のかなた、海のはてに、愛する者の面影を偲び、身体だけが現実の世界に残って、やるせない彷徨をする。長谷川は、一週間ばかりの間に、普通の場合の一年間分ぐらいも、東京の街路を歩き廻った。
 そのことが、長谷川自身にも、顧みて意外だった。千代乃との関係は、ふとしたチャンスから萠した愛欲で、それが次第に深みに陥っていったのだと、安易に考えていたのだが、その安易な無抵抗な気持ちが、却って彼をぬきさしならぬところへ引きずりこみ、身も心をも捲きこんでしまった。ただ一つ、これは普通の恋愛とは違う、という感情があった。愛欲的要素が多すぎ、精神的要素が少ない、というのではない。真の交感が乏しい、というのでもない。ただなにかしら盲目的な棄鉢なところがあるのだ。千代乃にもそれがある。長谷川にもそれがある。将来への計画とか見通しとかは立たない。千代乃がいくら自立的生活というようなことを手紙に書いたところで、それがどれだけの力を持つものか。
 成り行きに任せるということに、長谷川は甘えた。甘えて、そして子供のようになり、千代乃を慕った。
 千代乃を待ちこがれて、長谷川は、三田の伯母さん、菊池久恵さんのところをも訪れた。千代乃からは何の消息も来ていなかった。
「あのひとも気まぐれでしてねえ。」と久恵は言い、それから言い添えた。「なにか思いこむと夢中になってしまいますよ。」
 そばで、娘の敏子がくすりと笑った。
「あら、おかしいわ。気まぐれと、夢中になるのと、同じことかしら。」
 邪気はないのだ。久恵も眼をくるりとさして、ほほほと笑った。
 長谷川が招じられたその室は、謂わば久恵の仕事部屋で、いろんなものがごたごたと取り散らされ、そして整理されてるのである。縁側にはミシンがあり、袋戸棚の上には硝子の人形棚があり、鴨居の上に漢書の横額、壁に複製の洋画静物、針仕事の机、針箱、訳のわからぬいろんな小道具、柳甲李など。その甲李の中に、さまざまな裁ち布が一杯、各種の色彩を氾濫[#「氾濫」は底本では「※[#「さんずい+巳」、第3水準1−86−50]濫」]さしている。その小布から手頃なのを選り取って、久恵と敏子は人形の着物を拵えていた。久恵の賃仕事と敏子のデパート勤めとが済んだ宵の、手遊びなのである。
 一閑張の円卓に、茶菓が出されてるが、久恵は長谷川にすすめようともせず、ただにこやかに坐っていた。
「あ、こちらの、紫の方がいいかも知れないよ。」
 人形の布を、久恵は指図し、それを敏子は素直にきいて、裁ち布をかき廻すのだった。髪にパーマをかけてはいるが、和服に着換えて、膝をきちんと坐っていた。
 彼女がデパートでどんな様子をしてるか、長谷川は見に行きたく思ったこともあるが、未だに差し控えている。明朗でそしておとなしそうな彼女を、長谷川は好きだった。
「敏子さん、いっそデパートなんかやめちゃって、人形の方を専門にしないかね。お母さんも、針仕事やミシンをやめて、人形の衣裳だけにかかるんですな。そしたら、僕が大いに宣伝して、売り出してみせますよ。」
「だって、人形だけじゃあ、退屈でしょう。」と敏子が応じた。
「退屈……どうして。」
「朝から晩まで、坐りどおしで、人形ばかり拵えるんでしょう。」
「いや、そんなにきちんと坐っていなくったって、腰掛けても出来るよ。」
「拵えるだけなの。」
「そりゃあね、専門家だもの。」
「拵えるだけじゃあ、退屈よ、きっと。」
「それでは、どうすればいいんだい。」
「あたし、こぎれいな店も、一つほしいわ。」
「もちろん、店も出すのさ。」
「そんなら、賛成よ。そうしましょうか。」
 敏子は母の方を、いたずらそうな眼付きで見た。母も振り向いた。
「お店の方は、千代乃さんに出して貰うんだね。あのひともきっと賛成するよ。」
「そうだ。千代乃姉さんをおだててみよう。でも、どうかしら。」
 すべて、冗談ではあった。然し、そのあとで、へんに皆黙りこんだ。
 それを機会に、長谷川は辞し去ることにした。
 自分たちに好意を持ってる菊池親子と、この際、千代乃のことをなにかと話しあうのは、長谷川にとって心嬉しいことではあった。何の懸念もなくそのような話が出来る相手は、外に誰もなかった。けれども、また一方では、そういう相手だから却って、うち明けた話が憚られる点もあった。無用の心配はかけたくないのだ。
 無用の心配、そのようなことが頭に浮ぶほど、長谷川はえたいの知れない危惧を感じ、なにか思い沈んでいた。
 門燈のまばらな薄暗い裏通りを、長谷川は首垂れがちに歩いてゆき、横へ折れ曲ろうとした。その時、後ろから久恵に呼び止められた。
 久恵は彼の顔をすかし見て、低い声で言った。

前へ 次へ
全25ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング