「敏子がいましたので、黙っておりましたけれど……。」
 しばらく後がとぎれた。
「一昨日、柿沼さんが見えまして、ほんの玄関先だけのことでしたが、千代乃さんが来たら、至急逢いたいことがあると伝えてくれと、それだけのお話でした。時間はとらせない、場所はどこでもよいと、たったそれだけでしたが……。」
 久恵はまた長谷川の顔をすかし見た。
「千代乃さんは、ほんとにまたこちらへ出て来るんでしょうか。」
 長谷川は腕を組んだ。
「柿沼さんの話は、それだけのことですか。」
「それきりですよ。なんだか、お急ぎのようで、立ったまま、すぐに帰っていかれました。」
「そうですか。なにか用が出来たんでしょう。千代乃さんが来たら、伝えておあげなさいよ。」
 久恵はまだあとあとを待つように、じっとしていた。長谷川は突然言った。
「たったそれだけのこと、敏子さんの前で、どうしていけないんです。」
「いけないことはありませんが、あの子、なんでも饒舌ってしまいますんでねえ、千代乃さんにでも誰にでも……。」
「それでいいですよ。御心配いりません。大丈夫です。」
 久恵と別れて、長谷川は独り、大丈夫、大丈夫、と胸の中で繰り返した。それに気付いて、自ら苦笑した。
 明るい気持ちになった。先刻の、人形のことで敏子と交わした対話が、ぽつりと火をともしたように胸に浮んだ。敏子の姿がその明るみの真中にいた。別にどうということはない。ただ無邪気な明朗さだ。
 長谷川はまた酒を飲みたくなった。流しの自動車をひろうため、明るい大通りの方へ向って行った。だが、敏子を中心にする明るみは、逆に薄らいでゆき、仄暗い影が胸に立ちこめてきた。その薄暗い中で、先日、柿沼と別れ際にじっと顔を見合った時のことが、ありありと蘇ってきた。格闘、そんなばかなことにはなり得ないが、何等かの意味での対決が、まだ前途に残されてるようだった。大丈夫、と彼はまた胸の中で独り呟いた。自動車をひろって、彼は新橋近くまでゆき、その晩ひどく酔っぱらった。
 酔いの中に、幻想がわいた。千代乃のこと、柿沼のこと、松木のこと、嫂のこと、敏子のこと、石山のこと、その他、そしてそれを中心にした情景が、現われては消えた。嘗て彼は、小説を書こうと思い、種々の構想を建てたり崩したり再建したりして、それを一々石山に相談したところ、石山からひどくけなされた。どれもこれもいい加減なでたらめで、到底ものにならんと言われた。然し、そのうちの一つ二つは、石山の小説に利用されたのである。ひどい奴だと抗議を申し込むと、石山はすましたもので、生かすも殺すも作者の腕次第さとうそぶいた。今の彼の幻想が、その折の小説構想に似ていた。ただ、意識的に努力しないで、自然に出来上ったり崩れ去ったりした。然し、そのうちのどれかは生き上ることがあるかも知れない。生かすも殺すも作者の腕次第だ、と彼はうそぶいた。――ほんとに酔ってたのである。

     九

 街路から、扉口のカウンターをくるりと廻って、喫茶のホールにはいると、空気がいささか重く淀んでるだけで、まだ正午前のこととて客は少なかった。右手のボックスの奥で、千代乃は煙草を吹かしていた。その煙草の煙だけを相図のようにして、眼を伏せ、考え込んでいたのである。
 彼女の姿を見て、長谷川はほっと安堵し、同時に、なにかぎくりとした。側まで行くと、彼女は眼がさめたように立ち上って会釈し、またすぐ腰を下し、正面に坐った長谷川の顔に、視力の強い眼を据えた。
「いつ出て来たんですか。」
「一昨日。」
 そして初めて、彼女の眼はちらと笑った。
「そんなら、前に知らしてくれたっていいのに。」
「昨日は一日、用事があったものですから。忙しかったわ。」
「いきなり電話でしょう。大至急用があるなんて……。あわてちゃった。なにかあったんですか。」
「逢いたかったの。」
 はぐらかすように言って、彼女は眼をちらと動かした。
 それで、言葉が途切れ、コーヒーが来て、長谷川はそれをすすった。
 しばらく見ない間に、千代乃はすこし痩せたようだった。なんだか疲れてるようで、顔色も冴えていなかった。その代り、なにか思いつめてるといった風な、一筋の心棒が通ってる感じだった。
「なにかあったんでしょう。」と長谷川は尋ねた。
「いいえ。」
 彼女はかるく頭を振り、それから上目を据えてちょっと考えた。
「あなた、今日、お忙しいの。」
「いつもの通りです。」
「それでは、これから、どこかへ連れていって下さいません。電話では、ちょっと言いにくかったものですから……。どこでもよろしいわ。お金は、わたし用意していますの。ただ、東京都内はいや。東京の外でさえあれば、どこでもいいわ。どんなところでもいいわ。いろいろ、お話がありますの。ね、行きましょうよ。あなたがだめなら、わ
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