くくりであり、家庭の慰安でさえもあります。いろり、という言葉の意味は、日本語にしても外国語にしても、あなたにはよくお分りのことと思います。それはまあそれとして、わたしは、亡くなった妻の常子にも、千代乃さんにも、またほかの二三の女にも、すっかり魅力を感じなくなりました。セックスの衰えから来たことかとも思いますが、そればかりではありません。女性というものは結局、男の活動の邪魔になり束縛になることを、多年の経験で知らされたのです。だから、家庭の中にあっては単なる長火鉢で結構、家庭の外にあっては単なる湯たんぽで結構……だが、長火鉢にせよ、湯たんぽにせよ、終始わたしの身辺について廻らないで、在るべき場所をはっきりきめておいて貰いたいものですよ。」
議論ではなくて、告白めいた調子だった。暫く黙ってた後で、彼は突然言った。
「これは、形式主義ではないつもりです。わたしとて、形式をふみ破ることぐらいは知っています。」
ふいに眼を見開いた、とも言える工合に、彼の陰った眼差しは光りを帯びた。
「わたしも、これで、ずいぶん危い橋を渡ってきたし、綱渡りの思いをしたこともあります。その綱の上に、もしも蚯蚓が一匹逼っていたとすれば、踏みつぶして通るよりほかはありません。」
それが、過去のことではなく、現在のことのように、長谷川には受け取られた。とっさに、反抗の気持ちに駆られた。
「どうして蚯蚓なんです。」
柿沼の光った眼差しが、じっと長谷川の上に据えられた。
「なぜ、蚯蚓であって、蛇ではいけないんです。」
柿沼はちょっと小首を傾げた。
「蚯蚓なら踏みつぶして通る、蛇ならよけて通る、ということもありますからね。」
「ほう、そういう意味ですか。なに、蛇だって構いません、踏みつぶして通るだけのことですよ。」
柿沼のうちには、少しも敵意は見えなかった。その眼差しはまた陰ってきた。然し、なにか決定的な距てが二人の間に置かれた。
「これだけお話すれば充分です。」柿沼は独語するように、そして憂鬱そうに言った。「よいところでお逢いしました。ここへは、しばしば来られますか。」
「いえ、めったに……。」
「そうですか。」
柿沼は女給を呼んで、勘定を聞いた。長谷川も、自分のぶんだけの勘定を払った。そして一緒に立ち上った。
スタンドの前を通って、薄暗い階段口のところで、柿沼はちょっと足をとめた。
「あのひとは、長火鉢にも、湯たんぽにも、なれませんよ。そういう人柄じゃない。」
呟くように言って、柿沼は階段を上っていった。長谷川はあとに続いた。地下室のバーから外に出ると、もう肌寒い初秋の夜気だった。まだ柿沼が何か言うかと思って、長谷川は一緒に歩いたが、しばらくして、そのばかばかしさに気付き、立ち止った。すると、柿沼も立ち止った。
並木の影の中で、二人は顔を見合った。帽子をかぶってる柿沼の顔には、何の表情も見て取られず、長谷川は眼鏡の奥で瞳をこらしたがふと、片手をあげて、無帽の長髪をかきあげる身振りをした。それを眼に納めて、柿沼は歩き去った。
長谷川はぴくりと肩を震わし、反対の方へ歩きだした。街路に小石を一つ見つけて、力一杯に蹴飛ばした。
その時、彼はなにか眼覚める思いがした。酔ってもいたが、そればかりでなく、柿沼に魅せられていたような気持ちだ。こちらに弱みがありはしたが、それにしても、彼は自分から何一つ意志表示もせず、柿沼の話だけを聞いて、鼻づらを取って引き廻されたではないか。しかも、柿沼の言葉にしても、どこまでが真実でどこまでが嘘かけじめがつかず、今になってみれば、彼はただ仮面と相対していたようなものだ。しかもその仮面の奥には、人の心情を突き刺すような、傲慢な蔑視の眼がひそんでいた。
長谷川は激しい憎悪の念を覚えた。と同時に、千代乃の面影を胸に抱きしめた。
八
千代乃からはその後、何の便りもなかった。長谷川は仕事をなまけ、酒に親しむようになった。仕事の方は、或る文化団体の事務、詳しく言えば社団法人の研究所の事務整理なので、少々なまけたとて支障はなかったが、酒の方は、時間的に彼の生活を乱脈にした。
彼は兄の家に寄食しており、兄は政党関係の仕事が多忙で、弟のことなど見向きもしなかったが、嫂はしばしば、眉をひそめたり揶揄したりした。
「梧郎さん、どうなすったの。この頃、なんだか荒れてますね。」とも言った。
「梧郎さん、恋愛でもなすってるようね。そんなら、早く結婚なさいよ。」とも言った。
「梧郎さん、身体でもおわるいの。医者に診てお貰いなさいよ。」とも言った。
梧郎はただ笑っていた。夜更しをし、朝寝をし、食欲は乏しかった。あまり朝寝坊をしていると、五つになる男の児がやって来て、彼の布団の上に乗っかって飛び跳ね、むりやりに起した。嫂の指図なのだ
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