たし一人で行くわ。」
駄々をこねるというよりは、無理強いなのである。然し長谷川には、それが心に甘く泌みた。
「行ってもいいけれど、どこといって、僕は知った場所がないし……湯ヶ原にしましょうか。」
「いや、あすこはもういやよ。ほかのところ、どこでもいいわ。」
考えてるうちに、長谷川はふと思い出した。江戸川べりに、石山がなんどか原稿書きに行った家があり、鄙びて静かで小綺麗だと聞かされていた。果してどんな所か、行ってみなければ分らないが、とにかくそこを持ち出してみると、彼女はすぐ賛成した。
「そこへ、これから行きましょう。」
「これからって、僕はいきなり飛んで来たんだから、研究所にもちょっと顔を出しておかなければならないし、仕度をしに家へもちょっと寄らなければならないし……。」
「あら、わたしだって、このままではどうにもならないわ。」
三時にお茶の水駅の東口で待ち合せることにきめた。喫茶店を出るとすぐ横の化粧品店で買物をする千代乃と別れて、長谷川はタクシーを拾った。忙しかった。研究所から自宅へ、それからお茶の水駅へと、駆け巡った。
方向が違った感じである。千代乃が出京したら、手近なところに落着いて、ゆっくり話し合いたいと思っていたのに、慌しく引っ張り出されてしまった。都内はいやだという彼女の気持ちも分らなかった。何事か起ったに違いないが、彼女は少しも匂わせなかった。まあどうにでもなれという棄鉢な思いに、長谷川は身を託した。
藤色お召のすらりとした和服姿で、彼女は橋のたもとに立って、深い川面を眺めていた。小型の鞄をさげていた。長谷川の姿を見て、いたずらそうな眼付きで笑った。
「それ、僕が持ちましょう。」
小さな鞄だが、何かぎっしりつまっていて重かった。代りに、彼女は長谷川の折鞄を持った。
電車はすいていたが、車内では、話すこともなかった。
電車から降りて、淋しい田舎町を少し行き、ほかの電車の踏切を過ぎ、その先を左へ折れると、河岸の堤防に出た。目指す割烹旅館はまだだいぶ遠そうだった。夕陽が赤く、ゆったりと流れる河水に映えていた。
「わたし、これから、洋服にしようかと思うの。おかしいでしょうか。」
河の方を眺めながら、千代乃はそんなことを言った。
「夏服はいやだけれど、これからは、洋装もいいわね。」
「趣味としては、そうだけれど、実際は、あべこべでしょう。夏は
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