の外にいるのか、その場所がはっきりしないのです。」
「あのひと自身は、はっきりしているはずです。勿論、あなたの室の外にいます。」
「それなら、そのように、わたしから逃げ廻らないで、きっぱり解決をつけたらどうでしょうか。そうするように、あなたからも勧めおいてくれませんか。」
先刻から、なにか仄暗い靄のようなものが柿沼の表情を包んでいた。五分刈りの大きな頭と浅黒い丸顔は、まだ逞ましい精力を思わせるが、その精力を屈伏さしてしまうような憂暗な影が、額から眼差しにかけて漂っていた。そしてその影が、彼の静かな言葉の冷酷な感じを一層深めた。機械的な或るいは事務的なものの持つ冷酷さである。感情の片鱗も認められなかった。
長谷川はやけに、皿のハムをフォークで突っついた。それがまた自分でも忌々しく思えた。ビールを一気にあおって、柿沼を見つめた。
「あなたの言葉通りを、あのひとに伝えておきましょう。だが、解決をつけるには、どういうことをお望みですか。例えば、あの家から出て行ってしまうことですか。」
「いや、あの家は、わたしの名義にはなっていますが、千代乃さんのものです。いつでも名義変更は致しましょう。」
「それでは、ほかに、どうすればよろしいんですか。」
「わたしと、わたしの娘たちに、はっきり挨拶をして貰いたいものです。」
「千代乃さんから……。」
「そうです。ほかに誰もいないではありませんか。」
長谷川は身内が震えるのを覚えた。
「あなたは、あのひとを侮辱したいんですね。」
「いや、どうして侮辱などと考えなさるんですか。単に形式にすぎないことですよ。」
「形式による侮辱でしょう。分りました。あなたは人間を道具扱いしていらっしゃる。あなたにとっては、人間の感情なんか問題じゃないのでしょう。家庭においても、女房は単に長火鉢にすぎない。きまった場所に据えてありさえすれば、それで充分だ。奥さんが亡くなられたので、長火鉢がなくなった。だから、別な長火鉢が新たに必要になって……。」
「まあお待ちなさい。」
柿沼は長谷川を制して、かすかに皮肉の皺を頬に刻んだ。
「それは、あなたの言われる通りです。女房は家庭においては、一種の長火鉢にすぎないし、茶の間にじっと尻を据えておればよろしい。実際、わたしのような生活をしている者にとっては、茶の間に長火鉢が一つあることが大切で、それがつまり、家庭のしめ
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