叱るのでもなく、怒鳴りつけるのでもなく、とっちめるのでもありません。こんなところ、柿沼とよく似ていて、同じ穴の貉とでも言うべきでしょうが、ただ、兄の方がへんに利己的な匂いがし、そして卑屈な感じがします。柿沼の方には、もっと深い怖いものがあります。
兄との話はそれきりに終りました。兄からも、私からも、日常の些細な用事以外は、なにも言い出しませんでした。そして何事もなく時がたつのが、私にはかえって気懸りになりました。柿沼からもなんの便りもありませんでした。そして柿沼のあの陰鬱な不吉な影が、また私の眼先にちらつきだしました。
昨日の晩、いえ、昨日の晩といえば昨夜ですから、一昨日の晩のことです。まだ明るいうちに、本館から辰さんがやって来て、旦那が見えませんでしたかと聞きました。いいえと答えると、はて、おかしいな、と首をかしげています。柿沼によく似た人を見かけたのだそうです。
そのあと、暗くなってからのことです。私は茶の間で書物を読んでおりました。あちらの室で、少しばかりの寝酒をちびりちびりやっていた辰さんが、ふいに、はいと大きな声をして、玄関へ立ってゆき、戸をあけて、しきりに外をすかして見ています。私が声をかけると、辰さんは戸をしめて、そして言いました。
「いま、足音がして、だれか、戸を叩きませんでしたか。どうも、旦那のようだったがなあ……。」
夕方のことから引続いた錯覚なのでしょう。私にはなにも聞えなかったのです。
それから一時間ばかりたって、また同じことを辰さんは繰り返しました。私にはやはりなにも聞えませんでした。気のせいかな、と辰さんは呟いて、寝てしまいました。
もうじっとしておるべきでないと、私ははっきり悟りました。
翌日、つまり昨日のことですが、私は兄に向って、柿沼からなにか言ってきてはいないかと尋ねました。なにも便りはないそうです。よかったと思いました。もし柿沼がやって来るか、面倒な手紙が来るかすると、まずいことになりそうです。私の方から出かけていって、柿沼に逢ってみようと思います。きっぱりと処置をつけたいのです。けれども、やめた方がよいとあなたが仰言れば、柿沼に逢うのはやめます。
準備が出来次第、私は三田の伯母さんの家へまた参ります。少しまとまったお金を用意しなければなりません。四五日はかかりましょうか。いろいろな計画があります。こぎれいな店を
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