少しずつ綺麗になっていった。そしてそこに、島村がアトリエにいない時など、彼女と子供たちが集っている。彼女は子供たちに書物を読んできかせるのだ。眼で文章を辿りながら、やさしい言葉に飜訳して話してきかせるのだ。その才能にかけては、彼女は全くのインテリだ。彼女はよくトルストイのものを読んだ。
「むかし、或るところに、お金持の百姓が住んでいました。この百姓に、三人の子供がありました。軍人のセミョーンと、腹の大きなクラスと、馬鹿のイワンで、その外にもう一人、マラーニャという唖の娘がありました。軍人のセミョーンは、王様に仕えて、戦争に出ました。腹の大きなタラスは、商売をするために町へ行きました。馬鹿のイワンは、妹と一緒に家に残って、一生懸命に働きました。軍人のセミョーンは高い地位にのぼり、領地もたくさん出来て、或る貴族の娘と結婚しました……。」(右原文――むかし或る国のあるところに、一人の金持ちの百姓が住んでいた。この金持の百姓には、三人の息子――軍人のセミョーンと、布袋腹のクラスと、馬鹿のイワンと、外にマラーニャという唖の娘とがあった。軍人のセミョーンは王様に仕えて、戦争に出た。布袋腹のクラスは商売をする為めに街の商人のところへ行き、馬鹿のイワンは妹と一緒に残って、一生懸命に働いた。軍人のセミョーンは、高い位や領地を得て、或る貴族の娘と結婚した……。)
 大体そういった調子なのだ。ところが、こんなやさしいところは無事だが、少しむずかしいところになると、彼女は言葉につかえたり、云いなおしたりする。小学校の子供たちは、殊に男の児は、それを非難する。嘘を読んでいるんだといいだす。彼女は書物を見せて、説明してやる。そしてなお熱心に話し続ける。そうした読み方が子供たちには嬉しかったに違いない。隙さえあれば、彼女にせがむ。島村も時々、その集まりの仲間にはいった。静かな晩、電燈の光がやさしい明るみを投げている。ランプか蝋燭でもともしたいような光景だ。子供たちは熱心に耳を傾けている。キミ子は一生懸命に飜訳して話している。ゆるやかな美しい声だ。言葉につかえると、頭をかしげて一寸考える。短い髪の毛がさっと揺れる。それでもなお言葉にまごつくと、困ったような無邪気な眼を大きく挙げて、朗かに笑いだす……。
 それは全く、彼が知っているバーの女給ではなかった。不意に闖入してきた客だ。そしてすぐに、家族の一員になりすましている。女中たちとも仲がよく、子供たちとも仲よしだ。だが、キミ子、それも本名だかどうだか分らないし、姓は尋ねても、笑って答えない。或る時、彼女が子供たちに話してる言葉を、彼は蔭から聞いたことがある。――「日本人同士は、名前の方が親しみがあっていいのよ。豊臣秀吉は、秀吉、加藤清正は、清正……。豊臣といったり加藤といったりする人はないでしょう。藤原鎌足や菅原道実だって、鎌足や道実で、藤原だの菅原ではないでしょう。東郷平八郎だって、もっとたつと、東郷大将じゃなくて、平八郎になってしまうわよ。ただ、外国人は別ね。いつまでも、トルストイだの、クロポトキンだの……。それでも、ナポレオンなんか、もとは名前よ。苗字はボナパルトというんだから……。」――それは詭弁だ。だがとにかく、彼女自身は、キミ子さんと皆から云われている。それがいつしか、耳になれてしまっているのだ。島村までがキミ子さんと呼んでいる。
 キミ子が、女性だからよいが、男だったらそれでは少し変だったろう。然し、女だから困ることもある。彼女は自分の室で――アトリエの次の室で――よく髪を梳く癖があった。一寸した化粧道具は、浴室の脱衣場に、家のものと一緒に竝べているが、室にも櫛を一本置いていて、そこの鏡で、時きらわず髪を梳く。子供たちと遊んだり、掃除をしたりした後で、大して乱れてもいない短い毛を、さっさとなでつけるのだ。それが彼女の癖らしい。そのために、毛が落ち散ることがある。ところで、島村に云わすれば、女の毛髪は凡そ不潔なものの代表だ。垢と埃と油でこねあげたものだ。固より彼女の断髪は、油気の少いさっぱりしたものではあるが、それでも不潔なことを妨げない。掃除を一つの仕事にしている彼女としては、矛盾した仕業だ。而もそれが、アトリエの次の室だ。島村はよく眉をしかめた。彼女もそれに気がついた。然し、癖はやはり癖だ。
 その一寸した癖を除いては、彼女は善良な娘だった。朝は早く起きて、女中たちと一緒に掃除だ。それから勉強的埃払い。夕方は台所の手伝い。それに子供たちの相手。全く小間使の生活だ。ただその小間使は、自由に金を使った。女中たちから小遣をもらっては、子供たちのお三時のために、或は晩の惣菜のために、勝手なものを買いこんでくる。果物や菓子はよいとして、罐詰やソースや肉類を集めて、訳の分らないハイカラなものを拵える。それがみな、食べられないようなまずいものばかりだ。皆がまずいと云う。彼女は笑っている。女中たちも笑っている。馬鹿げた無駄遣いなのだ。然しそうしたつまらないことが、子供たちを喜ばせ、家の中に一脈の色彩を添えるのだ。
 その色彩に、最も敏感な立場にあるのは島村だった。彼はアトリエに籠って、自作の女人像に眺め入ることが多かった。それはみな女体を対象としたものだ。女体には特殊な香りがある。彼はそれを捉えようとしている。然し色彩は? それは女性から来るものだ。殊に若い女性から来るものだ。その色彩の捉え難さを、殊に表現し難さを、彼は自作の像を眺めながら発見するのである。扉の向うの、次の室では、キミ子が、麦桿で壺の底を吹いている。或は何かを読んでいる。それに対して彼は、殆んど女体は感じないが、一種の女性を感ずるのだ。そして彼の眼は、また塑像の方へ向けられる。何かしら或る苛立ちが、彼の胸に欝積してくる……。
 そうした苛立ちもあって、彼は或る晩、友人に誘わるるまま、ひどく酒を飲んで、前後不覚に酔っ払ってしまった。初め天麩羅を食いに出かけたのがもとだ。翌朝、自宅の寝床で眼を覚すと、宿酔の気持の上に、腹がしくしく痛んでいる。腸の中に、恐らく天麩羅の蝦が停滞して、足ぶみをしてるのだ。そのたびに、腸の粘膜が痛み出す。そして脳味噌の中には、酒の滓が沈澱していて、重苦しい。彼は眼を開いたままじっと寝ていた。身動きするのも大儀だ。手足が、そして身体中の筋肉が、別々の物体になって、ただそこに寄り集ってるきりだ。午後になるまで、彼は起上らなかった。
 そこへ、キミ子がやってきて、彼の床わきにぴたりと坐ったものだ。何だか彫刻でも据えたような恰好だ。そして生真面目に、御病気なら看護してあげると云う。それが本気なのだから可笑しい。病人を看護するには、何かが足りない。切りっぱなしの髪が、余りに無雑作だ。坐り方が、余りにも固苦しい。全体に、余りにも曲線が乏しい。看護人は、病苦の刺々[#「刺々」は底本では「剌々」]を包みこむふんわりした真綿みたいでなければならないのだ。島村は煙草に火をつけて、彼女の方を見やる。それにつれて、彼女も苦笑する。そんなら二日酔ですかってきく。まあそうだな。煙草の煙もそれに調子を合せる……。
「ゆうべ、コスモスにいらして?」
 何かがちらと光ったような問いだった。コスモスというのは、彼女がいたバーの名前だ。
「さあ……。」
 宿酔の記憶は朦朧としている。だが、たしかに彼は行かなかった。天麩羅屋がふり出しで、日本酒のバーに行って、それから待合……。初めに天麩羅なんか食ったんで、腹が少し痛んでいるんだ。
「たしかに行かないよ。」
「なぜ?」
 なぜってきく奴もないものだ。だが、それは島村にも初めての発見だった。コスモスは、キミ子がいてのコスモスだ。キミ子がいなくなれば、もうコスモスでも何でもない。女給はも一人いるし、洋酒のいいのも揃っているが、やはりキミ子が光っていた。彼女が美貌だというんじゃない。女給としてはむしろ不似合の顔立だ。また客扱いが上手だというんじゃない。むしろ我儘な方だ。それでいて、彼にとっては――どこまでも、彼にとってはだが――初めからの懇意さから、彼女だけが光っていた。懇意とか馴染とかは、おかしな連鎖を人間の間に拵える。その彼女がいなくなれば、コスモスは薄汚い狭いただのバーに過ぎない。彼女の――この女の――存在が、あすこでも何かの価値を持っていたのだ。
「君がいなけりゃ、行ったってつまらないさ。」
「そう。しばらく行かない方がいいわ。」
 彼が? 彼女が? どちらともつかない調子だ。そして微笑しながら、彼の顔を珍らしそうに覗きこんで、二日酔ってどんな気持かしら、などと云い出すんだ。――それは、ぼんやり記憶の糸を辿りながら、自分では少しも口を利きたくなく、そのくせ誰か親しい者の話でも聞いていたい気持だ。――そんなら、全然反動的なものね、などと生意気なことを彼女は云う。酒の酔にも反動があるのは面白いなどと。だけど、酔払うと大抵は誰でもやたらに饒舌になるのは、不思議なことだ。殊に先生のはひどい。ふだんは無口でいて、一度酔ったとなると、やたらにべらべら饒舌りだす。どんなことでも饒舌ってしまいそうだ。信用ができない。秘密が保てない。酒飲みには大事が為せないとは本当だ。――然し、大事を為すには、秘密を保つ必要はないのだ。公明正大に為すべきだ。――それは実行にはいってからのことだ、などと彼女は云う。準備時代には或る種の秘密が保たれなければならない……。――だが、議論は今の彼には面倒くさかった。全く、自分では口を利きたくなかったのだ。ただ彼女の言葉を聞いているだけで足りた。それに、そこで饒舌っているのは彼女一人ではない。彼女のうちに、彼女以外の誰かがいるようだ。そして彼女は――キミ子は、だんだん遠くなっていく。コスモスでの存在の方が、眼前の存在より大きくなっていく。おかしな女だ。或は彼の認識が足りないのかも知れない。足りなくても構わない。腹痛はもう殆んど去って、身体各部のばらばらな感じだけがまだ残っていて、大儀なのだ。脳味噌にもまだ酒の滓が残っていそうだ。うつらうつらと、簡単な返事だけをしていると、彼女もしまいには黙ってしまう。こんな時、子供たちに対するように、書物でも読んでくれればよいのに……。
 その子供たちの一人が帰ってくると、キミ子はその方へ行ってしまった。
 彼は暫くうとうととした。珍らしく床の中で新聞を読んだ。起上ると、夕陽が赤々と照っていた。その中で、庭で、キミ子は子供たちと戯れながら、風呂の焚付に古い木箱をわっている。鉈を振上げたおかっぱの彼女は、コスモスの彼女や議論の彼女とは、また別な似合った存在だ。振向いた顔が、健康そうに赤くほてっている。
「みんなが、半日労働をして、半日勝手なことをして暮す……そうした世の中になると、ほんとうにいいと思うわ。」
 言葉は公式だが、それでも、心から自然に洩れた本音らしい。云ってしまって、少してれぎみに、白い歯を出して笑っている。彼もつりこまれて微笑して、縁側に立ったまま煙草に火をつけた。

     三

 来てから丁度一週間目に、キミ子は一日外出した。夕方帰ってきた。まもなく食事だ。食事の間、何か考えこんでいるらしく、いつもよりおとなしく静かだ。そして食事がすむと、長くお世話になったが、明日帰っていくんだと云う。それも、何のことだ、またコスモスへ戻るんだと、島村の耳に囁くのだ。そして今日のおみやだとて、いろんな花火を一包、子供たちの前に拡げてみせた。花火はふるっている。彼女も自分で笑いだした。何を買ってきていいか分からなかったのだ。花火を売ってる知った店があるので、それを思いついただけのことだ。そればかりでなく、実は、後で島村に打明けたところでは、女中二人にそれぞれ草履を買ってきたので、お金が無くなったからでもある。だが、花火は子供たちが大変喜んだ。夜になると、皆で花火を上げて遊んだ。ぽーんと空高く破裂する火花は、子供たちの心をそそる。彼女も同じように心をそそられているらしい。何かしら浪費的な破壊的なものを嗜む情が、彼女のうちに積ってるらしい。火薬の蒼い光に
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