女客一週間
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傾《かし》げて

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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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     一

 キミ子は、何の前触れもなしに飛びこんできた。夜の十二時近くだ。それでいて、酒気もなく、変に真面目だ――ふだん、酒をなめたり、はしゃいだり、ふざけたりしてる者が、何かの拍子にふっとそんなことを忘れて、まじまじと眼を見開いてる、そういう調子外れの真面目さだ。そして云うのだ――「よく起きていらしたわね。……お忙しいの?……あたし、今晩泊めて下さらない? いけないかしら……。」だが、そんなことは、彼女には問題じゃない。泊ることに、自分一人できめてかかっている。アトリエのとっつきの、狭い控室に通ると、片隅の小卓に、革のハンドバックと小さな風呂敷包とを置いて、長椅子にゆったりと腰を下してしまった。そして珍らしそうに室の中を眺めている。断髪の毛がおかっぱに垂れ、大きな目玉が澄み、何だか知れない興奮の色が頬に残っていて、紫縞の銘仙の着物の襟を合している、それが、年齢より四つも五つも若く、まるで十四五歳の少女のようだった。
「この室、いつもとちがってるわ。」
 いつもと……じゃあるまい。彼女が来たのはたった一度きりだ。二三人の男たちに、酒の上で、一寸引張ってこられただけだ。そしてその時とちっともちがっていない室だ、棚には古い安物の壺や皿が竝んでいる。棚の下の書棚には美術や文学の雑多な書物が竝んでいる。出張窓の花瓶には嘗て花が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されたことはない。そしていつも変らぬ椅子や卓子。そして日に日に、目にはつかないが、埃や人の手垢が多くなってるきりだ。だが今夜、彼女は一人で、泊るつもりで闖入してきている。バーの女給から、小賢しい変に真面目な女性に蝉脱している。白粉気が少くて、耳朶が[#「耳朶が」は底本では「耳孕が」]一寸美しい。いつもの無邪気な大きな目玉だが、その奥に、或る思想が――計画とか考案とか決心とかではなく、対象なしに独自的に存在するある思想が――静に湛えている。
「何だか、当がちがったんだろう。」
 島村陽一がそう云って、彼女の目を覗きこむと、彼女の眼は一寸まごついて、それから笑った。皮肉がかった笑いだ。がそれきりで、彼女の眼の奥の或る思想は、捉え難く静まり返ってしまう。どうしたんだときいても、どうもしないという。喧嘩をしたのでもない。何かが気に入らなかったのでもない。追い出されたのでもない。ただ、バーを――彼女はその小さなバーの二階に寝起していたのだ――飛びだしたが、訪ねていった家の当が少しちがって、今晩泊るところに困ってるのだった。
「あとで、また、ゆっくりお話するわ。」
 そして、別に他意ありそうもない笑いだ。
「まあそんなことは、どうでもいいさ。酒でも飲まない?」
 ホワイト・ホースをコップの水にわったのを、彼女は一杯だけうまそうに飲んだ。があとは、水だけだ。今晩は酒をのんではいけないのだという。煙草は? やめたといって手をださない。それが、意志の力で抑えているのではなくて、如何にも自然に振舞ってるのらしい。
「少し、てれちゃうね。」
 島村はウイスキーのコップを手にしながら、苦笑した。
「あなたは、飲んでもいいわ。」
 そんなことで、遅くなってしまった。もう女中たちも寝ていた。それはいつものことだ。夜遅くやって来る者があったり、夜更けまで話しこんでゆく者があったりするが、それに構わず、女中たちは十二時頃に寝ることになっている。そうでないと、子供のある家では、秩序が立たないのだ。
「兎に角、寝るところを拵えてあげよう。」
「いいわ、あたしここに寝るから。」
「ここに?」
「ええ。この椅子の上に寝るの。初めから、そのつもりで来たんですもの。」
 寝場所まで、自分できめている。だが、その固い長椅子の上では、いくら何でも、あまりひどい。室は他にもある。それでも、彼女は変に遠慮深い――というよりも、もう自分できめてかかってるのだ。云うなりに任せるの外はなかった。ただ、暖いから仕合せだった。島村は苦笑しながら、母屋の方へ行って、女中を一人起した。――アトリエの方に我儘な女の泊り客だ。薄い布団で沢山だ。そして、女物の寝間着があったら一枚……。
 島村が戻っていくと、キミ子は室の隅につっ立っていた。紫がかった着物、臙脂のかった帯、房々とたれてる短い髪、夜更けの電燈に輝らされてるその後姿が、世の中に一人ぼっちだという様子だ。而も元気に一人ぼっちなのだ。彼女の前には、大きな※[#「王+昌」、274−下−15]玳の甲羅が壁にかかって、美しい色艶を見せていた。
「これ、鼈甲がめでしょう。」
「うむ。」
「鼈甲も、こうして甲羅でみると、そうブールジョワくさくないあね。」
 賛意を表するには、キミ子の口から出たとしては、余りに生意気な言葉だ。島村は黙って、煙草に火をつけた。その側へ、彼女は寄ってきた。
「あなたは、松浦って人、御存じ?」
「松浦……知らないね。」
「じゃあ、中江さんは?」
「中江……知らないね、そんな人は。」
「…………」
「どういう人だい、それは……。」
「それでいいわ。それから、あたしね、モデル女だとしといて頂戴。少し変かも知れないけれど……。」
「…………」
 じっと見入ってくる彼女の眼は、妙に真剣だった。真面目な秘密がその底にあるらしい。色恋の背景じゃない。何かしら生活的な背景だ。蓄音器のジャズに合して足ぶみをしたり、酔っ払った真似をしたり、処女でなければ出ないような甲高い叫び声で、客のわるふざけをけとばしたり、そして常に快活で陽気な、バーの彼女、それがいつもより理知的になって、――思いなしか、皮下の贅肉も少く、強健そうで、信頼のこもった真剣さを見せている。
「よろしい、君の云う通りにしておこう。安心し給え。」
 島村が手を差出すと、彼女は力強くそれを握りしめた。それをまた、島村は握り返した。彼も調子がとれなかったのだ。酔うとだらしがなくなって、やたらにはしごで、与太をとばして歩く、そういう時にしか逢ったことのないキミ子だ。それが、特別な好悪の感情はなかったにせよ、こちらが真面目でいる時に、こまっちゃくれた小娘の姿で、何かしら真面目な思想をもって、飛びこんでこられると、逆に、虚を突かれた形で、裏から覗かれた心地で、落付けなかったのだ。壁の高みで、玳※[#「王+昌」、275−上−24]の甲羅が笑っている。滑っこい、人を馬鹿にした笑いかただ。島村はやたらに煙草をふかした。キミ子は黙っている……。
 女中が、伊達巻姿で、布団を運んでくると、島村は立上って、用もないのにアトリエの扉を開いて中を覗いた。室の中を歩き廻った。グラスやコップを片附けた。――我儘なお客さんだ。その長椅子の上に寝るんだって。いい加減に寝かしてやれよ。
 キミ子は、びっくりした様子だ。顔を真赤にして、ばかに丁寧な言葉で、女中に詫びた。自分で布団を敷くんだと、女中と争っている……。
「じゃあ、おやすみなさい。」
 キミ子は真面目な顔付で、黙ってお辞儀をした。
 島村はそこに二人を残して、母屋の寝室の方へ行った。空が晴れてるらしい夜気だ。

     二

 眼がさめたら起上る、というのが島村の生活様式だった。睡眠時間は問題外だ。早く寝ようと遅く寝ようと、翌朝は、眼が覚めた時に起上るのだ。寝床の中で、煙草をふかしたり新聞をよんだりすることを、彼は知らない。起上って、顔を洗って、万事はそれからだ。随って、睡い時にはいつでも眠るということになる。朝食をして、新聞をみて、またすぐに寝床にはいることもある。それを彼は自然的保健法と云っている。
 前晩就寝が遅かったにも拘らず、彼は比較的早く眼を覚して、自然的保健法の習慣で、すぐに起上った。が驚いたことには、朝寝坊だろうと想像していたキミ子が、もうとっくに起上って、女中たちと一緒に立働いてるのだ。室の掃除や、雑巾がけや、庭掃き……。子供たちの学校行の仕度までも手伝ったそうだ。彼が縁側で煙草をすいながら、お早う、と声をかけると、丁寧にお辞儀をして、にこにこして、行ってしまった。おかしな奴だ。そして朝食の時には、女中たちと一緒に食べるんだといってきかない。お惣菜の都合があるからと女中に説かれて、漸く島村と一緒の食卓に坐ったものだ。
「朝っぱらから……困るじゃないですか。」
「だって、あたし、働くのが嬉しいんですもの。でも、先生んとこ、どこも綺麗ね。」
 昨晩とは、また言葉の調子がちがっている。だが、それが自然だった。朝日の明るみで見るせいばかりでなく、彼女は晴れやかな顔をしている。濃い眉毛が健康そうだ。眼の奥には、もう思想の影はない。まるい頬の脹らみに、口が小さい。鼻の下の上唇のみぞが深く切れて、それが大きな目玉と共に、子供っぽく無邪気にも見えれば、また、何だか不幸な運命を表徴するようにも見えるのだ。
「先生んとこに、一週間ばかり置いて下さらない? ちゃんとした家庭で、少し働いてみたいから。」
「主婦のない家庭でも、そう見えるかしら。」
「そんなら、半端な家庭でもいいわ。ほんとに、働いてみたいの。」
「まあ、気まぐれは、よすんですね。ただいるんなら、四五日ぐらい構わないけれど……方々かきまわされちゃあ、こっちから御免だ。」
「大丈夫よ、あたし、女中さんたちの指図通りにするから……。」
「さあ、どうだろうね。」
 女中の方に島村が言葉を向けると、女中は静に笑っている。その眼がキミ子の眼と出逢って、更に微笑するのだ。いつのまにか、妥協してるのかもしれない。だが、そんなことより、島村は自分の仕事を持っていた。アトリエに籠って、彫塑の泥土をこねまわさねばならない。アトリエは彼の城廓だ。女中にも、誰にも、やたらに窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]を許さないのだ。がそこへも、扉の隙から、キミ子のおかっぱが覗きこむ。
「先生……。」
 甘ったれた声だ。わりに綺麗だという家のなかに、きたないところを見付けたのだ。仕事があったのだ。手をつけてよいかどうか、女中さんたちにもこればかりは判断が出来ない。お仕事の邪魔はしないから……。というのは、アトリエの次の室、彼女が昨晩とまった室、それがきたない。殊に棚の上や書物の間には、埃がたまっている……。
「静に……そして元通りに、しておくんですよ。」
 そんなことは心得てるという、そして嬉しそうな顔だ。実際、ことりとの物音もしない。彼女は、ゆっくりと掃除にかかっているのだった。書物を一冊ずつ引出しては、その埃を払っている。と同時に勉強しているのだ。文学書は埃を払っただけだが、美術に関するものは、洋書だと、一つ一つ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を眺めてゆき、日本史のものだと、半日でも読み続けている。その方面のことは、まるで知らないらしい。つまらない初歩的解説に読み耽ったり、島村が隙な時には、西洋の名画や通俗画の見さかいなく、持ってきては題名を尋ねる――彼女には西洋文字の知識が皆無なのだ。そして彼女とは何の関係もなさそうな美術のことを幾らかでも知ることは、埃を払うことと同様に、彼女にとっては仕事なのだ。が一番おかしいのは、壺の掃除だった。彼女はどう考えてか、ソーダ水を飲む麦桿を十数本買ってきて、その一本を壺の中にさしこんで、顔を真赤にしながら吹き立てたものだ。壺の中には、驚くほど埃がたまっている。それが麦桿からの息で、ぱっと吹きたてられる。彼女の顔は黒くよごれ、髪は白くよごれる。同じ埃でも、顔と髪とでは、色がちがってくるのは妙だ。鏡を見て、彼女はくすくす笑っている……。
 そうして、彼女の臨時の室は――彼女は引続いてそこにしか寝ようとしない――
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