てらされる彼女の頬は、いつもより美しい。流星だの稲妻だの、電気だの地雷火だの、その他いろんなものが、空中にまた地上に、やたらに爆発させられた。庭の中には、火薬の煙が一杯立ちこめて、物影の方へと逼いよってゆく……。だが、月のない空に星が群れている。その広大な夜の空に、花火や火薬の匂は圧倒されがちだ。いくら続けてもきりがない。子供たちとキミ子とは妙に興奮している。いい加減に切上げさせなければ……とそんな気持に島村は迫られる。
「もうそれくらいにして、またあしたにしましょう。」
みんな、びっくりしたようだ。が子供は利口だ。そんなら松だという。家の中にはいって、松だの菊だの柳だのと、線香花火がつづく……。
この花火の一件が――彼女が自分で齎した偶然事が、彼女の精神に何かの影響を与えたにちがいない。子供たちが寝てしまって、アトリエの次の室で、最初の晩と同様に、そしてあれから初めて、島村と二人きりになった時、何となく苛立った感傷を持っていた。彼女の身辺に、まだどことなく、煙硝の匂いが漂っているようだ。
先生のところへ来てよかった、と彼女は云うのだ。働くことの面白さを、いくらかでも味うことが出来た。どんなつまらない仕事でも、楽しんでやれば、価値がある。女中の仕事にも、家庭的に考えれば、しみじみとした味がある。嫌々ながらやれば、どんなことでも駄目になる。楽しんで働くことだ。心から働くことだ。プチ・ブルの生活にも――御免なさいとも何とも云わないで彼女は続けるのだ――プチ・ブルの生活にも、いいところがある。いけないのは、プチ・ブルの根性や意識などで、生活そのものは、人間の生活そのものは、どこでもそう大した変りはない。そして、いろんな形式の生活をしている者が、心から知合になるのは嬉しいことだ。いつどんな助けになるか分らない。自分だって、またいつ先生のお世話にならないとも限らない。ほんとに有難く思っている……。――だが、彼女はそんなことを云いながら、本当のことを云うと共に、また嘘をも云ってるのだ。家庭だの、プチ・ブルの生活だの、人と人との知合だの、彼女が考えてるのはそんなことばかりじゃない。口を利きながら、彼女の眼玉の奥には、他の或る思想が湛えている。先達の晩と同じだ。彼がその思想の方を見つめていると、彼女は眼を伏せて、御免なさい、と突然云いだしたものだ。身の上も事情も話さないで、ただお世話になったのは済まない、などと云うのだ。だが、事情というのは、或る事柄に関係していて――或る思想的秘密出版の手伝いをしていて、警察の方が懸念だったので、一時姿をかくさねばならなかった、とただそれだけのことなのだ。或はそれだけしか話せないのだ。而も、それも無事に済んでしまったらしいのだ。――つまらない。そんなことにこだわる必要はない筈だ。個人個人のこと、島村とかキミ子とか、二人の間の恩義だとか、そんなことは考える必要はなさそうだ。
「そんなことは聞かなくともいいよ。」と島村は微笑したものだ。「僕にだって大体の想像はついている。君たちは、もっと、個人的なことを離れていつも、社会だとか人類だとか、そんなことを考えていなくちゃならないんじゃないかね。」
キミ子は顔をあげて、びっくりしたように彼の方を見つめた。そして、同じようなことを――全く同じことを、よく聞かされたと、首を傾《かし》げている。こざかしい額が髪の下から覗いている。
「僕だって、それくらいなことは知ってるよ。ただ、僕はまだ君たちの仲間でないだけだ。」
「…………」
どうだか、という様子で、まだ首を傾げている。髪の毛が片方になびいて、自然の媚態をつくる……。そしてやさしい溜息だ。――自分たちは、強権主義とちがって、緊密な組織がないので、誰が仲間だか敵だかよく分らないので困る。でも、先生の言葉が本当なら、こんど是非、松浦さんや中江さんに紹介したい。今丁度、ハドスンの書いた鳥の生活の研究をやっている。あの単なる観察から、何かを引出すもくろみだ。相互扶助の研究の延長だ……。とそんなことを饒舌る彼女は、無邪気な一人の小娘に過ぎなかった。それが、ふいに立上ったものだ。
「秘密よ、ねえ。酔払って饒舌っちゃだめよ。」
足を踏み鳴らしでもしたいとこらしい。その腕を捉えて、引張ると、彼女は素直についてくる。それを、彼は自分の膝の上に坐らした。
「大丈夫だよ。君の方がよっぽどお饒舌じゃないか。」
「そりゃあ……。」間の考えが長く、「先生を信用してるからよ。」
膝に抱いてみると、思ったより丸っこくて重い。それを全部ゆだねて、彼の肩に頭をもたせかけてくる。着物には襟垢がついている。着て来たままのものだ。が髪の毛は、さらさらしている。そして毎晩、この長椅子の上に布団を敷いて寝てるのだ。これが本当のキミ子らしい。コスモスの彼女も、真面目くさった先日の彼女も、その中に融けこんでしまう……。彼はそっと、彼女の両脇から手をまわして、胸に抱きしめてみる――抱きしめてやるのだ。彼女はじっとしている。眼をあいて、天井の片隅に視線を休めている。何を考えているんだ? 横顔の頬が無心で、上唇の鼻下のみぞが、深くきれて、不幸な運命らしい。でも、今、彼の腕のなかで、安らかな呼吸をしている……。彼の唇が、彼女の唇の方へ寄っていく……。瞬間に、彼女は飛びあがってしまった。
彼は寂しく微笑した。
「御免、御免よ。そんなつもりじゃなかったんだけれど……。」
「うん、いいの。」
腑に落ちた様子で――何が腑に落ちたのか?――晴れやかな笑みをもらして、後ろ向きに、また彼の膝にとび乗って、伸びをしたものだ。ハドスンも相互扶助も、どこかへいって、淋しそうな彼女だ。そして、着物ごしにも、温い彼女だ。何にも云うことがなかった。
「さあ、もう遅いよ。寝よう。」
「まだいいの。」
「だって、いつまでこんなことしてたって、仕様がないじゃないか。」
「そうね。」
彼女は彼の膝からとび下りて、片手を差出した。何の疑念もまた欲望もない、大きな目付だ。彼は力強くその手を握って打振った。
「おやすみ。」
晴々とした気持だ。
その気持が、翌日までも続いていた。彼が起上ると、彼女はもう早く起きて、朝の掃除にかかっている。彼を見て、一寸眩しそうに笑うのだ。お掃除がすんだらすぐに出かけるんだと云う。それを連れて、彼はアトリエの次の室にはいっていった。目には立たないが、隅々まで妙に綺麗になったようだ。そのお礼に、何かしなくてはなるまい。それを彼は考えあぐんでるんだ。少なくとも彼女は、全く小間使同様に働いてくれた。品物では見当がつかないし、金銀ではいけないかしら?――そんなことだめ、と彼女は断然ぶちきってしまった。労働というものは、報酬を要求すべきではない。報酬を要求するからいけないのだ。その代り、生活は誰にでも与えられるべきだ。彼女は働かなければいけないから働いたのだ。食べたいから食べたのだ。室があいてるから泊ったのだ。労働は万人の義務で、生活は万人の権利だ。そういったことが、また彼女の頭のなかにはびこってしまっている……。
「こんど、コスモスで、チップに頂くわ。それまでお預けよ。……でも、困っちゃったわ。こんど来る時には、花火をどっさり持ってくるって、お子さんたちと約束しちゃったの。いいかしら……。」
「約束は守らなくちゃいけない。」
「…………」
彼女は無意味に、おかっぱの毛をゆすって笑った。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「新潮」
1931(昭和6)年11月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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