いたバーの名前だ。
「さあ……。」
 宿酔の記憶は朦朧としている。だが、たしかに彼は行かなかった。天麩羅屋がふり出しで、日本酒のバーに行って、それから待合……。初めに天麩羅なんか食ったんで、腹が少し痛んでいるんだ。
「たしかに行かないよ。」
「なぜ?」
 なぜってきく奴もないものだ。だが、それは島村にも初めての発見だった。コスモスは、キミ子がいてのコスモスだ。キミ子がいなくなれば、もうコスモスでも何でもない。女給はも一人いるし、洋酒のいいのも揃っているが、やはりキミ子が光っていた。彼女が美貌だというんじゃない。女給としてはむしろ不似合の顔立だ。また客扱いが上手だというんじゃない。むしろ我儘な方だ。それでいて、彼にとっては――どこまでも、彼にとってはだが――初めからの懇意さから、彼女だけが光っていた。懇意とか馴染とかは、おかしな連鎖を人間の間に拵える。その彼女がいなくなれば、コスモスは薄汚い狭いただのバーに過ぎない。彼女の――この女の――存在が、あすこでも何かの価値を持っていたのだ。
「君がいなけりゃ、行ったってつまらないさ。」
「そう。しばらく行かない方がいいわ。」
 彼が? 彼女が?
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