、一人の男の肌にも触れなかったと、あなたは信ぜられますか。それはとにかく、あなたが深く考えこんだのは、そんなことでなく、もっと身近な直接的なことではありませんでしたか。
 初めは、私にもあなたの真意が分かりかねましたよ。夕方になって慌しく、大島の着流しに草履ばきで、帽子もかぶらず手荷物もなく、ステッキ一本で、懐中には波江さんから受取った百円とありったけの金を用意して、四五日旅をしてくると、だしぬけに出かけたんですからね。お母さんや女中ばかりでなく、誰だって驚きますよ。
 あなたが先ずその薄茶の帽子を買ったので、私は初めて微笑したものです。それからあなたは銀座裏で酒をのみ放め、その晩は富士見町の待合にしけこみ、翌日はまた酒、夜はまた銀座裏、そして遅く、吉原までのしましたね。自暴自棄でしてるのかと思うと、そうでもない。妙に積極的な放蕩でしょう。そして精力を浪費してしまったんですね。
 もうこうなったら、本望でしょう。あとは、ただ試してみるだけのことです。時間を気にしなくてもいいですよ、きっと波江さんは来ます。少しくらい後れるかも知れませんが、まあゆっくり落着いておいでなさい。精根つきたって
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