昔の燈籠流しの晩のことが、むず痒いような気持で新たに思い出されました。そこに、なにか、ぽつりと火がともってるようです。ぽつりと、遠く美しく火がともっています。私は夜の蝶のようにその方へ飛んでいきたくなりました。珍らしく、ほんとに珍らしく、涙が出てくると、それに自分で腹が立ちました。私はどうかしていたのでしょうか。生涯何一つ美しい思い出を持っていない私です。あの遠い火を失いたくない。そうして私は、今村さんと一緒に海を見に行きたくなりました。今村さんを誘いました。ところが、その日、歌舞伎に行く筈だったのを忘れていました。私一人ならいいけれど、平賀さんと一緒だったのです。その腹癒せに……というよりも何だか逆上《のぼ》せて、今村さんと一緒に一夜過してやれという気になりました。
 もう私は、何にも外のことは考えたくありません。今村さんと、せめて、一夜だけの道行きをしたい、それだけです。淋しいのは、こうして今村さんと一緒に自動車にゆられています今、あの昔の遠い火がどこかへかすんでしまったことです。こんな筈ではなかったのですが……。いえそれよりも、あの時、私はなぜ今村さんに凡てを許してしまわなかったのでしょうか。私の方から誘惑することも出来た筈です。私はもう汚れています。汚れない前に、あの時、なぜ今村さんに身を投げ出していかなかったのでしょうか。今となっては、もう遅すぎます。けれど、夢を見ることなら、あの続きの夢を見ることなら……。それにしても、今村さんの手、どうしてこう冷たいのでしょう。いえ、顔を見てはいけません。眼をそらして、遠くを見つめて、続きの夢を見るのです……。

     三

 大森の海は、汚くて泥くさかったが、俺にはさほど嫌ではなかった。今村と波江の室からは遠慮して、第一そんなところ可笑しくて見ちゃいられないし、俺は夜遅くまで海岸をぶらついて、それから、コンクリートの岩壁の隙間にはいり、ぐっすり寝こんだ。
 頭の上で何か音がしたので、眼をさますと、驚いた、こんなに早く、といってももう八時頃だったろうか、今村が下駄をつっかけ、庭の境の竹垣をまたぎ越して、岩壁の上に来て屈みこんだのである。もう着物にきかえ、顔も洗い、髪もなであげていたが、頬の肉がおち、眼が窪んで、そして両の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに、結核性とも見えるような、かすか
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