。蜘蛛の巣も動かない。私もじっと佇んでいた。そこへ旅館のお上さんが来て、雨戸をすっかり繰ってくれた。室の掃除の間に顔を洗うと、間もなく朝食の膳が運ばれる。
食後の身体を縁側に置いていると、近くの漁夫、六弥という六十の上になる老人が、半白の眉を笑み動かして、跛を[#「跛を」は底本では「跋を」]ひきひき、一升壜を下げてやって来た。
「今日はひとつ、伝馬船で投網《とあみ》に案内すべえと思ってるが、旦那……。」
声と一緒に酒の匂いがぷーんとする。
「朝っぱらから、いい景気だね。」
「なあに、そうでもねえですよ、あはははは。」
日に一升の酒がなければ一日が過せないという老人である。以前は網元をして田地も可なりあったが、みな飲んでしまったそうである。それでも、しっかり者の上さんと息子とがついてるので、日に一升の酒を欠かしたことがなく、その上、そこいらの百姓と違って、毎日米の飯に、どんな不漁でも肴を食う、というのが自慢だった。そして朝っぱらから、一升壜を下げて旅館の酒を買いに来るのである。
「どうだろう、海の模様は。いやに霧が深いようだが……。」
「その霧が問題だよ。こう、ずーっと海面《うみず
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