ようだ。そして更に、近年の大衆向きの作品には、勿論加筆はしたろうが代作がいくつもあったということを聞いては、私ならずとも驚く人が多かろう。こういう点になると私の理解の範囲外で、まあ強いて云えば、作品に書いた平賀源内などに相通ずるものがあったのであろうか。
 文学者間では私は十一谷君と最も親しい者の一人だったが、逢えば碁か雑談で、文学論などをすることが殆んどなく、お互の作品を批評し合うことも殆んどなかった。余り親しくて照れくさかったせいもあろうし、七つの年齢の差があったせいもあろうが、また、創作態度が次第に異ってきたからだったろうか。十一谷君の短篇集「青草」や「あの道この道」などの時代には、作品の傾向も互に近かったが、「唐人お吉」から「神風連」などになると、十一谷君の視野は時代的な広さをもち、小説形式は整備してき、表現技法は独特な彫琢を加えてきたし、私の方は逆に、作品との距離を取失い、形式や技法を無視するようになってきた。昭和六年に十一谷君は、「文学と生活が漸く一致し来りたるを覚ゆ。」と書いているが、それは私から云わすれば、文学のために生活を萎ますような作家態度が確立されだしたことであり
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング