十一谷義三郎を語る
豊島与志雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脂《やに》
−−
十一谷君とは大正十年以來の交誼を得ていたが、その間の十一谷君と切り離せないものは、碁、麻雀、煙草、古い反故るい……。
十一谷君が同人雑誌「行路」の一員だった頃、やはりその同人の一人だった三宅幾三郎君と、私はよく碁をうって、遂に十一谷君をも碁道に引入れてしまった。其後十一谷君の進歩著しく、私たちと互先の手合になり、顔を見れば早速碁盤を持出す始末で、十年前、二人とも急な仕事をもって熱海に行った時など、一週間、原稿は一枚も書かずに碁をうってばかりいたことがある。川端康成君、故直木三十五君なども、碁の仲間だったが、十一谷君と最も番数多く碁をうったのは、住所が近かったせいか、恐らく私であろう。十一谷君の碁は堅実、私の碁は大雑把で、棋風は異っていたが、勝負の数は互角だった。先年、十一谷君が逗子に引込む時、また碁をかみながら、「結局勝負なしで、長年一局の碁をうち続けてきたようなものだ。」と笑ったことがあった。
近年、十一谷君は麻雀にもひどくこりだして、碁と同様、そのために夜を徹することも屡々だったらしい。仲間は故令弟活太郎君をはじめ、身辺の若い人たちだった。私も三四度加わってみたが、あの面倒くさい勘定がよく分らず、象牙と竹と張合せの牌の感触を楽しむ域に達せず、ただがちゃがちゃと騒々しく忙しいだけなのに癇癪を起して、「麻雀は娯楽でなく無益な労働だ。」という説を立てて非難したが、十一谷君は抗弁もせずにただ笑っていた。
ふだん、書斎で、十一谷君はしきりに茶をたしなんでいた。それも玉露の香ばしいやつで、夜更しをする時などは、何よりも茶が必要だったらしい。あの禿げあがった額、痩せた体躯、腰をまげ加減な姿勢などを、茶とむすびつけて、私は冗談に「茶老人」と呼んでいたこともあるが、その茶老人、私から皮肉られても、ただにこにこと、静かな微笑を見せるきりだった。
十一谷君の愛煙は世に有名である。必ずバットに限るのであって、それを一日に少くとも十五箱は吸っていた。遂には、バットの模様の二匹の蝙蝠をつけた原稿用紙を、わざわざ拵えさしたほどだった。一日に十五箱といえば百五十本、睡眠時間や食事其他の時間を差引いて、一時間に幾本、一本が幾分と、つまらない計算を私はやってみたこともある。而も十一谷君は、蝋引きの吸口を必ず用いて、普通の愛煙家のようにじかに吸うことがなかった。或る時、母堂の心配そうな打明話によると、眼や顔をふくハンケチが茶色くなり、便所の朝顔も茶色くなり、襯衣も茶色くなり、つまり全身から煙草の脂《やに》が吹き出してるらしいとのことだった。それには私も驚いたが、本人は平気だった。徹夜をして、黎明の頃に、バットの真髄が分るのだと云っていた。身辺にまきちらしたバットの空箱の、金の蝙蝠と緑の地紙とが、黎明の光に何とも云えぬ色合を呈し、手の指先が金粉に染められていると共に、恍惚たる感を与えるのだとか。それほど好きだったバットも、肺を病んでから、昨年の初夏の頃以来、殆んど止めていた。「吸うと苦しいから自然にやめた。」と云って淋しい顔をしていた。そして十ヶ月後、春子夫人の手で棺の中に、バットが三箱入れられたのである。
十一谷君は仕事に対して入念だった。「唐人お吉」以後歴史物に手をつけるようになってからは、文字の駆使、表現技法などに、独特の精緻な風格を増してきて、「読者の眼を廻させるスタイルだ。」と或る人に云わせるに至ったが、そればかりでなく、材料の蒐集研究に一方ならぬ苦心を費したものだった。あちこちの古い記録を見て歩いたのは固より、どこで手に入れたか、古い反故るいの一杯つまってる葛籠を幾つか持っていた。古証文、手紙の断片、種々の受取書、いろんな日付や品物の覚え書、そうしたつまらない反故るいの中から、作中人物の実生活を探り出そうとしていた。恐らく、「唐人お吉」に関するものが最も多かったろう。砂中に黄金の粒を探す者のような眼付で、十一谷君は古い反故るいをかきまわしたことであろう。
そのようにして、碁や麻雀はとにかく、反故の中に埋まり、茶をすすり、バットをやたらにふかして、余り外出もせず書斎に閉じ籠ってる十一谷君の健康を、親しい者たちは早くから心配していたのだった。私もその一人で、対抗療法として酒をすすめてやれと思ったのだが、それは遂に失敗に終った。六七年前のこと、銀座裏に、十一谷君がそこのお上さんをよく知ってる関西流の小料理屋があり、私が石川欣一君を通じてそこのマダムをよく知ってるバーがあって、どちらにも私は何度か十一谷君を引張っていった。また、私の酒飲み相手の芸妓が、今は物故しているが十一谷君を知ってる叔父をもっていて、その叔父を通じて十一谷君と
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング