面識があったので、私はその芸妓と飲む時には屡々十一谷君を連れだした。然しいずれの場合にも、十一谷君は余り杯を重ねず、面白いのか面白くないのかさっぱり分らない様子で、ただ笑顔を示すきりだった。其後、私はあまり酒をのみすぎて十二指腸潰瘍にかかり、病が癒えて後もなおこりずに酒に親しみ、従って十一谷君を誘惑する念を捨てはしなかったが、然し私が所謂悪友になるより以前に、十一谷君の方で病気になってしまった。「酒でも飲んでおれば肺病になんかならずに済んだ筈だ。」と私が怒って云った時に初めて、十一谷君は素直に同意を表してくれた。
 そうした十一谷君が、ただ一度、昭和三年から四年にかけて四五ヶ月、酒か何かに耽溺したことがあった。本郷肴町の裏の方に小さな鳥料理屋があって、一時は殆んど毎日そこに入りびたっていた。さすがに私も多少心配し、それとなく意見したこともあったが、十一谷君は何となく私を煙ったく思ってる様子で、少しも心境を打明けてくれなかった。その料理屋の主婦とその伯母らしい人と家族同様に馴染み、また後で聞いたことだが、新橋の或る芸妓をそこに呼び寄せたりしていたそうだが、固より色恋の問題はなかったらしい。なお、或る婦人記者と非常に懇意になっていたし、過去に或る婦人関係の紛雑もありはしたが、私の知ってる限り、それも大したものではなかった。そして当時十一谷君は「唐人お吉」を書いた後で、文名隆々たる頃だった。然るに、後になって「昭和三年――この年、しきりに死を念う。」と自身で書いたので、私は唖然とした。何故に酒に親しみ、あの料理屋に入りびたっていたか、そして何故にしきりに死を念っていたか、私には遂に分らずに終った。そして昭和五年に十一谷君は春子夫人と結婚したのだった。
 一体十一谷君は、心境や身辺のことは一人胸に秘めて、親しい友にも殆んど洩さなかった。四年前、京橋際のビルディングの一室を借りて、好日書院という特殊出版を初めた時でも、私など一言の相談も受けず、更に驚いたことには夫人へも一言の相談もなく、みな事後報告に過ぎなかったのである。この書院を始めたのは、高木文氏の貴重な研究を世に出すのを主眼とし、三四の親しい後輩に職場を拵えてやるのが目的だったらしいが、「瀟湘八景絵の伝来と考察」其他二三の書物を出したきりで、みごとにそして当然失敗してしまった。其時の負債が前々からの負債と重って、ひどく困窮していたらしい。そんなことは私によく分らなかったものだから、まだ同書院をやってた当時、十一谷君が私の困窮を見て、私の負債整理に尽力してくれた頃、「とにかくお互に有無相通じて急場をきりぬけよう。」と云ってくれたのを、私に気兼ねさせまいとの老婆心からだろうとそのまま聞き流したのを、今となっては心苦しく思うのである。
 みだりに胸襟を開かず、狷介狐高、体面を保ち、終始矜持をもち続けた生活を、十一谷君は守り通したのだった。一人の兄と二人の弟とのために可なりの金を負担し、更に好日書院のために可なりの金を負担し、そして一昨年母堂の病死、昨年弟の病死、その後に自身の病気なので、療養も意の如くならなかった。それ故、私たち――川端康成君や三宅幾三郎君や菅忠雄君や秋山数夫君など、いろいろ心配して、文壇の知人関係から見舞金を集めようとはかったのであるが、十一谷君はそれを耳にすると、あくまで固辞し反対した。尤ものようでもあるから、その企ては止めることになった。然しながら、そういう人柄だったに関らず、新らしく知り合いになった者にたあいなく惚れこむ癖もあった。その代り、親しい者ともやがて疎遠になることがあったようだ。そして更に、近年の大衆向きの作品には、勿論加筆はしたろうが代作がいくつもあったということを聞いては、私ならずとも驚く人が多かろう。こういう点になると私の理解の範囲外で、まあ強いて云えば、作品に書いた平賀源内などに相通ずるものがあったのであろうか。
 文学者間では私は十一谷君と最も親しい者の一人だったが、逢えば碁か雑談で、文学論などをすることが殆んどなく、お互の作品を批評し合うことも殆んどなかった。余り親しくて照れくさかったせいもあろうし、七つの年齢の差があったせいもあろうが、また、創作態度が次第に異ってきたからだったろうか。十一谷君の短篇集「青草」や「あの道この道」などの時代には、作品の傾向も互に近かったが、「唐人お吉」から「神風連」などになると、十一谷君の視野は時代的な広さをもち、小説形式は整備してき、表現技法は独特な彫琢を加えてきたし、私の方は逆に、作品との距離を取失い、形式や技法を無視するようになってきた。昭和六年に十一谷君は、「文学と生活が漸く一致し来りたるを覚ゆ。」と書いているが、それは私から云わすれば、文学のために生活を萎ますような作家態度が確立されだしたことであり
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