。」と幾代は答えた。
彼は仕事の関係上長い旅は出来なかった。それで、往きと帰りとだけ伴をすることにしようといったが、初めから女だけの方がいいと幾代は答えた。そして彼女等は頭の中で、温い湯の湧き出る野や山の自然を、築き上げたり壊したりした。そういう感傷的な気分のうちに、二人の心は実の母と子とのように結ばれていった。彼はそれを喜んだ。二人の心が落付いたと思った。
二人の心は実際落付いていた。然し、彼が夢にも思わなかったほどの深い所へ沈潜したのだった。二人は、依子を家に引取って育てたいといい出した。
依子! その名前を今公然と持ち出されると、彼は一種の暗い壁にぶつかったような気がした。半ばは異性に対する好奇心から、半ばは本能的な肉慾から、何等の予想なしに設けた子であり、当時その存在に対して、愛着と憎悪とを投げかけた子であって、其後母親の手で育てられてるということを自ら責任回避の口実として、折にふれて気にかかりながらも、忘れるともなく忘れがちになっていた子だけに、その子のことを考えると、暗い影に心が蔽われた。彼は母と妻との申出に対して、諾否の返答が与えられなかった。そしてただ、二人の心持
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