になった。針仕事に対して、妙に執拗な熱中を現わすようになった。然し仕事そのものを愛しているのではなかった。平素着の仕立物などを外へ出すことを拒みながら、着物一枚を幾日もかかって弄ってることがあった。いろんな布《きれ》を膝の前に散らかし、針箱を引き寄せて坐ってる、そういう境地を愛してるらしかった。幾代の態度もまたそれを助長していた。身体を動かすような仕事を幾代は出来るだけ彼女にさせなくなった。その上いろんな細かい世話までやいた。魚屋《さかなや》が来ると自分で立って行くことさえあった。滋養の多いものを取って体力をつけさせること――そのくせ運動を少くさせながら――それが彼女の主義らしかった。そしてしまいには、二人で入湯の旅に出かけることを夢想しだした。夢想……に違いなかった。いつまでも実現出来なかったから。
兼子が遊び半分に針を運んでる側で、幾代は彼から買って貰った種々の地図を拡げた。兼子も針を置いて覗き込んだ。そして二人で諸方の温泉を物色し初めた。やがては旅行案内記のようなものまで読み初めた。
「早くきめたらいいじゃありませんか。」と彼はよく云った。
「でもねえ、女ばかりの旅ですから……
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