らないと思った。然しその後で、依子がそっとやって来て、「お父ちゃま。」と甘えた声で云うのを聞いた時、彼は依子が不憫なよりも寧ろ恐ろしくなった。こんなに小さくて人に媚びている! 彼はただじっとその様子を眺めた。
依子は次第に、「お母ちゃま」という言葉を口にしなくなった。それと同時に、「お母ちゃん」をも口にしなくなった。然しそれは言葉の上だけであった。彼女は前よりも屡々、玄関に飛び出したり庭の隅へつっ立ったりして、ぼんやり眼を見据えてることが多くなった。それがいつも夕方から晩へかけてだった。
そういうことが余り度重るので、もしやという疑念が彼に萠した。彼は隙《すき》を窺って、依子が玄関につっ立ってる時、いきなり表へ飛び出してみた。然しただ、閑静な通りが向うまで見渡せるだけで、敏子らしい姿にも見当らなかった。
所が、ある夕方――敏子が依子を連れてきた時のような、今にも雨になりそうな曇り日の、風もない妙に湿っぽい夕方だったが――兼子は、表に敏子らしい姿を見かけたと云った。彼はぎくりとした。二人ですぐに表へ出てみた。薄暗い通りには何等の人影もなかった。大きな犬がのそりのそり向うから歩いてき
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