女の手を執った。冷たい手だった。彼はそれを握りしめた。そして他のことを云った。
「お母さんは?」
「お居間でしょう。」
 彼は立ち上って母の所へ行ってみた。幾代は仏壇の前に坐って、手を合していた。仏壇には蝋燭に火がともされ、抹香の煙が立ち昇っていた。それを見ると彼は、眼に涙が出てくるような心地がした。然し心にもない言葉が口へ出た。
「何をしてるんです、縁起でもない!」
 幾代はふり向いて眼を見張った。然し彼女は何とも云わなかった。
 彼は足を返した。何を慌てているんだ! と自ら浴せかけた。自分自身が堪らなく惨めな気がした。熱い茶を飲んで、すぐに寝た。布団を頭からすっぽり被った。それは昔からやりつけてる自己催眠の方法だった。然しなかなか眠れなかった。幾度も頭を布団から出したり入れたりした。
 翌朝彼は遅く起き上った。昨夜兼子が突然熱烈な態度に変って、しまいに泣き出したことを、また、自分も変に感傷的な情熱に駆られたことを、夢のように思い起した。不眠の後のような、神経の疲れと弛緩とを覚えた。そしていつまでも床の中に愚図々々していた。漸く起き上って出て行くと、向うの室で兼子や依子の笑い声がして
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